小説

『鼻の居所』あおきゆか(『鼻』ニコライ・ゴーゴリ)  

 それでいて、コワリョーフ氏はいまこの瞬間の屋敷には確かに鼻男も執事もメイドもいるのだと確信していた。自分がそこにいるあいだだけ、屋敷は死に、無人と化した。そんなふうに思えてならなかったのである。

 再び歩いて宿に帰るとすぐさまベッドに横になり、そのまま、しばしうとうとしたようである。目が覚めると窓の外は日が暮れている。
 コワリョーフ氏は顔を洗おうとして洗面台に立った。まだ覚めきらぬ目で汚れた鏡に映った自分を見た。なにかがいつもと違う気がしたが、今の彼にはもうどうでもよかった。冷たい水で顔を洗うと、また鏡の中の顔が目に入った。その顔には鼻があった。いつの間にか、鼻が元通りの場所に戻って来ていたのである。
 あまりにいろいろなことが続いたせいで、すでに驚く気力も失われていたのか、コワリョーフ氏はしばらくぼんやりと佇んでいた。おそらく自分はまだ夢の中にいるのだろうと思い太腿をつねってみた。足は、飛び上がるほどではないもののじんじんと痛んだ。どうやら夢ではないらしい。顔の真ん中にそっと触れてみると、指先には確かにでこぼことした懐かしい鼻の感触があった。
 コワリョーフ氏はそれでようやく活気づいた。なんども鼻を撫でさすり、鏡を穴の開くほど覗き込んだ。さっきまでのしょぼくれた気持ちは嘘のように消えて、叫びだしたい気分だった。
 こうなることを察知したために、鼻男は屋敷から逃げ出したのかもしれないとコワリョーフ氏は思った。屋敷を振りかえったとき、たしかにそこに鼻男がいると感じたことなど都合よく忘れていた。
 それから宿を飛び出すと馬車を呼びつけ、再び屋敷に向かった。
 

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