小説

『鼻の居所』あおきゆか(『鼻』ニコライ・ゴーゴリ)  

「突然だが、遠方から来たのだ。ぜひコワリョーフ氏にお会いしたい」
「それでしたら、ただいまお取次ぎいたします」
 コワリョーフ氏は自分の屋敷の客間に案内された。暖炉には火が燃えて室内は程よく暖かかった。
「こちらで、しばしお待ちください」
 それにしても何と言おうか。訳を話してなんとか金を貸してもらうことくらいはできるかもしれない。いや、屋敷の客室にでも泊めてもらえれば助かるのだが。
 鼻男の毅然とした態度にあてられたコワリョーフ氏は、いまやすっかり卑屈な気持になっていた。
 鼻男はなかなか現れなかった。そういえば、客間に客がいるというのに、メイドはお茶ひとつ運んでこない。ベルを鳴らしてみたが、誰もやってこなかった。コワリョーフ氏は客間から出ると、あちこちの部屋を覗いてみた。鼻男はどこにもいなかった。ためしに台所や使用人たちの部屋にまで行ってみたが、誰もいない。
 コワリョーフ氏は再び客間に戻った。いつの間にか暖炉の火が消えている。

 屋敷の様子はパーティのときから何一つ変わっていなかった。家具や調度品の位置も変わっていないし、どこにも埃ひとつなく隅々まで磨き上げられている。しかしなぜだか、そこには一度も人が足を踏み入れないまま時が経ってしまった家の中にいるような、得体のしれない孤独感があった。まるで鼻男を待っている半時ほどのあいだに、ゆっくりと屋敷全体が疲弊していったようだった。
 コワリョーフ氏はにわかに恐ろしくなった。それで、急いで客間を出ると玄関から外に出た。庭には庭師もいなかった。門扉まできたところで、コワリョーフ氏は自分の家を振りかえった。外から見たのでは、何もわからないし何も変わったようには見えない。窓の中に人がいるのかいないのかも、暖炉に火が燃えているのかいないのかも。
 

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