小説

『長靴に入った猫』卯月イツカ(『長靴をはいた猫』)

 餌を食べ終えると、猫は口のまわりを一舐めして、僕の顔をじっと見た。しっぽがゆらゆらと滑らかに動いている。そして、ぷい、とそっぽを向くと、優雅な足取りで隣の家のベランダに消えていった。

「なんや……都合のいいやっちゃな」

 向こうのベランダで猫が鳴く。すると、サッシが開けられる音がして「まさき、遊びに来たん」という女の声が聞こえた。猫の甘えた声が続き、女が猫を抱き上げた気配が伝わってきた。

 思い切ってベランダの仕切り越しに「あの」と声をかけてみる。一瞬の沈黙があり、僕は自分の行動を早くも後悔した。
 足音が近づいてきて、ひょい、とベランダの仕切りの向こうから顔をのぞかせたのは、若い女だった。目が大きく、人懐こそうな顔をしている。

「寺田さんのご家族?」
「む、息子です」

 思いがけない状況になって、ついどもってしまった。顔が赤くなるのが分かる。彼女は軽く会釈しながら「隣に住んでる湯川です」と自己紹介をした。

「この度は、ご愁傷様でした。寺田さんとは、猫つながりで仲良くさせてもろてました。ええ人やったのにな……ほんま、残念です」

 沈んだ声でそういうので、胸がつん、と痛くなる。僕の知らない父の話を他人から聞くのは、何とも言えず不思議な感じだった。
 

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