思い出に浸りながら冷蔵庫や食器棚の中を点検していると、『雅彦へ』とあて名書きされた封筒が引き出しから出てきた。父の角ばった大きな文字を久しぶりに見た。死の予感があったのだと思いしらされ、今更ながら気付いてやれなかったことを悔やんだ。
封を開けかけたとき、ベランダから猫の鳴き声が聞こえた。机の上に封筒をおき、ベランダに出てみるが、猫の姿はない。首を傾げて再び中に入ろうとすると今度ははっきりと聞こえる。声の方に顔を向けると、ベランダの隅に父のものと思しき黒い長靴があり、その中から猫が一匹、顔を出していた。目の色が左右で違う、白地に黒い斑点模様の猫だ。
そばに寄ると、逃げもせず、興味深そうな顔をして僕を窺っている。猫の入った長靴の傍らには、猫の餌を入れていたと思われる陶器が二つ、伏せられて並んでいた。
「猫、飼っとったんか……」
初めて知る事柄に思わず声を出すと、それにこたえるように猫がもう一鳴きした。そしてごそごそと長靴から出てくると、僕の足に体を擦り付けてきた。餌を催促しているのかもしれない。
この猫に餌をやる義理はないが、父が飼っていたのなら、やはり面倒を見てやるべきなのかもしれない。僕は部屋に戻り、餌を探した。
猫缶が段ボール箱にしまわれていたので、それを陶器に移し替えてやると、猫はむさぼるように食べ始めた。汲んでやった水もよく飲んだ。ベランダにいたということは、外猫というやつなのかもしれない。餌だけもらいにくるという関係だ。背中をなでてやると、嫌がるそぶりも見せず撫でられるままにしている。柔らかい毛の中に手が沈み込んでゆく感覚が心地よかった。まるで自分が撫でられているような気さえする。