小説

『救われた人魚姫』あべれいか(『人魚姫』)

 再び吹いた風にカーテンが舞う。一瞬時が止まったようだった。それは長いようにも思えて、実際はほんの短い時間だったのかもしれない。でも私の中で時が止まったのは本当で、頭で理解するよりも先に心臓がバクバクと音を立てて動いた。
「え、それってどういう…」
 やっと出た一声は、少し間の抜けたような声で、頭は状況を理解するため、必死にフル回転している。そんな私に章吾は、再び真剣な瞳を向けた。
「ねぇ、風香。…俺と付き合って。」
 静かな放課後の図書室で、章吾の声だけが響いた。 
 カーテンの向こう側に広がる外の景色は、いつのまにか鮮やかなオレンジへと色を染めていた。

「知ってる?『人魚姫』には続きがあるんだよ。」
 章吾がそう切り出したのは、帰り道でのこと。
 かつて人魚姫が王子様を助けた時、国どうしの親睦を深めるため、たまたま国へ訪れていた隣の国の王子様がその光景を目撃していた。そして人魚姫に一目惚れをする。
 お話の最後、人魚姫は海に飛び込んでしまうけれど、その後生きて隣の国に流れ着く。隣の国の王子様は人魚姫を見て、すぐにあの時の人魚だと気づき、長い時間をかけて、傷ついた彼女の傍に寄り添い献身的に彼女を支える。やがて2人は結ばれ、人魚姫は生涯幸せに過ごしたそうだ。
 章吾の言う人魚姫の続きは本当かどうか分からないし、もしかしたら章吾の作り話かもしれない。でも、誰も不幸にならない、そのお話が本当であればいいのにな、と強く思った。
 愛した人には愛されず、元の世界にも戻れない人魚姫は、愛される喜びを知ってどんなに嬉しかっただろう。どんなに幸せだっただろう。なんだか少しだけ分かる気がする。
 あの日、干からびるほど泣いていた私のそばで、優しく寄り添ってくれた章吾にいつの間にか安心と温かさを感じるようになったように、人魚姫も大きな愛で包み込んでくれる隣の国の王子様を自ら愛するようになるのに時間はかからなかっただろう。
「とっても素敵なお話だね。」
 そう言って章吾を見上げて微笑むと、章吾も目を細めて微笑み返してくれた。
 初夏の風が吹く暖かな夕暮れ、手をつないで歩く2人の影が地面へと長く伸びていた。
 

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