小説

『泥田坊』化野生姜(『泥田坊』『鶴巻田』『継子と鳥』)

ズチャッネチャッという粘着質の重い音をさせ、その何者かは確実にこちらに近づいてきている。気にしないように勤めながらも、携帯電話を持つ私の手は震えていた。

『落ち着いて聞いてください。私達は遺体の泥を全て回収したんです。それはつい三十分ほど前の事でした。でも、でもですね。解剖が終わったときに、少し私どもは席を外していたんです。そうしたら泥も遺体も全て消えてしまって、結局、部屋中探したのですが…その、未だに遺体が見つかってないのです。』

粘着質の音は私のいる部屋の前で止まった。

『それでですね。泥を乗せていた台の上についていたんですよ。三本指の足跡のようなものが。私も訳が分からなくて…。』

キイという音を立てて部屋のドアが外側に開く。

『もしもし、もしもし?金子さん?』
そのとき、私は音を立てて携帯電話を床に落とした。

三本の指がドアをこじあけていた。
全身を泥にまみれさせ、こちらの方をじっと見るそれは、どこか見た事のある顔立ちをしていた。そうしてその後ろに、泥水をもっと濃くしたような形容しがたい泥の固まりがねばつく腕を出しながらこちらのほうを向いていた。

私は動けなかった。
泥のついた長靴が、あの田んぼの土を踏んだ長靴がひどく重たかった。
私はひどく後悔していた。
教授の手帳に書いてあったではないか。あの土を持ち込んではいけないと。
土を入れれば、連れて行かれると。

明滅していた蛍光灯が唐突に切れた。

そうして暗闇の中、泥と草切れと砂利を含んだその生き物の輪郭は強烈な土の匂いをさせるとゆっくりと私に向かって泥の滴る両腕を延ばしてきた。

…そら、いっちがぽーんとさけた。

 

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