小説

『ユリ』田中りさこ(『ヒナギク』)

 友莉はその日、仕事に集中できず、ミスをした。
 葉野さんが心配して声をかけてくれたが、友莉はとにかく苛立っていた。葉野さんや葵ちゃんの心配そうな顔さえ、煩わしかった。
 友莉は自分がどうしようもなく空しくて、一人で家に帰るのが嫌だった。家の最寄り駅を五つ先の駅まで行った。
 映画を観て、気分転換、いや、現実逃避するためだ。思い切り泣ける奴がいい。
 泣きたい気分をすべて映画のせいにしてしまいたかった。
 チケットを一枚買って、シアターに駆け込んだ。席はまばらだが、今世紀最も泣ける純愛、と宣伝で銘打っているためかカップルの姿が多い。
 開演のブザーがなり、薄暗くなった。予告編が始まって、少し経った頃、遅れて入ってきたカップルがいた。
 通路の端にいた友莉はなんの気なしにその顔を見て、顔を慌てて伏せた。
 それから、またゆっくりとそのカップルに目をやった。
 菊田さんだ。
 ああ、そういえば、菊田さん、この近くに住んでいるんだった、と友莉は自分のうかつさを呪った。
 が、次の瞬間には、そんなことはすっかりどうでもよくなった。
 菊田さんの隣にいるのは、翼さんだった。
 友莉は、この瞬間なんとく理解した。翼さんと改札で会ったこと、葉野さんがなぜ菊田さんを目の敵にするのか。
 なにもかも友莉は蚊帳の外だった。必死で毎日を生きているつもりだった。
 本編が始まる前に、友莉は映画館から逃げ出した。
 マンションの部屋に入り、中から鍵とチェーンをかけると、やっと空気が濃くなった気がした。
 友莉はドアにもたれかかり、浅く呼吸を繰り返した。
「私は、私だから」
 菊田さんのその言葉と微笑みが今になって、友莉の頭の中で何度も繰り返し流れた。
 

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