小説

『夜叉ヶ池』南平野けいこ(『夜叉ヶ池』)

 神の約束をたがえることは、この世界の崩壊を意味する。私たち3人姉妹の誰かが龍神の花嫁とならねばならない。なんて損な役割だろう、権力者の娘というのは。人身御供のための存在なのだ。感情的に行動するのが苦手な私は、姉と妹に後れをとり、客間に残されてしまった。龍神と父の視線が痛い。息が苦しい。酸欠に陥りかけたころ、女の声が聞こえた。

「私が行きます」

 その言葉は私の意志に反して、突然、私の口からこぼれ落ちたものだ。龍神の青みがかった漆黒の瞳がキラリと光った。どうやら私はもうすでに龍神に囚われてしまったようだ。龍神は私を花嫁と定めたのだ。父はほっとしたと同時に泣きそうな顔で私を見つめた。私の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。17歳にして私の人生は終わったのだ。

 真っ赤に燃える夕陽が落ちていく頃、険しい山の頂上にある小さな湖に辿り着いた。深い翡翠色をした神秘的な湖だ。龍神はここでまた人間の姿になった。「さ、参ろう」と私に片手を差し出す。私はそのひんやりとした手を取るしかない。若者に手を引かれて私は静かに湖へと足を踏み出した。

 一歩一歩、ゆっくりと冷たい水の中に入っていく。透明な水に膝まで浸かり、腰まで浸かり、ついに水深は胸を越えた。このままでは溺れてしまう。不安にかられていると、若者が私を振り返り「大丈夫」と微笑んだ。
 水が口を超えたとき、私は鼻で思いっきり息を吸い込んで止めた。それでも歩みは止まらず、私たちはついに頭の上まで湖に沈んだ。夕陽がさしこむ湖の中は、緑色に輝くきれいな世界で、私は息苦しさを一瞬忘れた。と突然、若者が振り返り、私に口づけをしてきた。柔らかな唇を感じるまもなく、ぬるりとした舌が差し込まれ、何も考えられなくなった。侵入した舌は私の舌を絡めとり、妖しくうごめいた。体から力が抜けて立っていられなくなった私を、若者は抱きとめ、角度を変えてさらに口づけを深めた。
 

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