「すいません・・・」
すっきりした横顔を見つめる。森下さん、どうかきょう、その女の子だけが春にしか着られないような薄いパステルカラーのコートや、真っ白いカバンにコーヒーをこぼしませんように、そうしてきょうという日を最悪だと思いませんようにと、間島は祈った。いや、きっと垂らしたとしても大丈夫だろう。こういう美しい人の家というのはそれに見合った染み抜きや洗剤がきちんと用意されていて、ことによってはそういう染み抜きをカバンのなかに携帯してもいるものだ。そうしていろんな染みをその日のうちにきちんと落としていって、何食わぬ顔で明日もきちんと出勤してくるのだ、昼に食べたラーメンのはねをネクタイで隠しながら、こんなレイトショーに案内してしまう自分とは違う。
「間島さん?」
思ったことが行動に出てしまっていたようだった。えびぞりするように体を後ろにのけぞらせ、ああ、と呻いた間島の顔を森下が覗き込んだ。
「こういう映画館のいちばんうしろ、なんか、・・・学生時代を思い出します」
「森下さん映画よく見てたんですか?」
「・・・映画っていうか、・・・ああ、わたし昔から、広いホールの後ろ、っていうのが好みで。・・・ほら、大学の大講堂とか、体育館とか、そういうところでも一番隅にしか、座れないんですよ、・・・イタい言い方でいうと、なんか、世界の終わりみたいな感じがして」
「世界の終わり?」
顔をしかめた間島に対して、あはは、なんだかすみません、と、コーヒーを大事そうに飲みながら森下は言った。
「こうして、いちばん後ろで見てると、なんか、ぼんやりしてくるというか、・・・みんな、前ばかり向いてて、締め切られた空間で、よく昔、空想してたんですよ、いま、戦争で街がなくなっても、この教室は、この映画館は、ずっとありそうだなあって、・・・それで、自分たちだけが生き残る、っていう。なんとなくこういうホールから、なかなか出られないの。怖い気がしてきて。やばいですね、・・・わたし、職場でこういう話したこと、ないですもんね」
「職場は・・・そうですね、戦争の話は、あんまり」
「そうですよね」
場内は人でいっぱいになったが、映画前に予定されていた出演者の挨拶が、交通事情のため少し遅れます、もう少々お待ちください、と、アナウンスが入った。ほう、出演者挨拶、それで今日はこんなにも混んでいたのだな。動揺を見せないようにして間島は咳払いをした。