小説

『リネン』三日月響(『蒲団』田山花袋)

 いいや、あの女の声が確かにした。
 一度しか聞いていなくても確かに洗面室のレコーダーがとらえていたあの卑猥な女の声だった。
 女は40代くらいの男連れだった。昨日の今日だ、絶対にアルジーがここに来ないことを見越して今日は別の男とチェックインか。私は、休憩に入った若手をひっぱりだしてフロントにつかせ奥から彼女を見た。大していい女でもなかったことになんとなくがっかりだった。連れの男にこの女の正体をばらしたところで何の意味もない。もっとも、そんな手段などないけれど。
 次回アルジーが来たときに、お連れ様が先週、別の方とお越しの際お忘れになったものです、と言って買ってきた男物の手袋でも渡そうか。そんなことするホテルマンがいたら、即効クビだ。
 部屋の前で張って、二人連れ立った部屋から出てくるところを写真に撮って、次回のアルジーの部屋に置いておこうか。アルジーが写真の真偽より、写真が置かれたことを問題にしたら老舗ホテルは存亡の危機だ。数十年間惰性と慣れ合いの時間を過ごしていた私に
枯れないオス臭を授けたアルジーのため、答えのない救済策を考えあぐねていた。
 そしてその日は突然訪れた。
 1か月ぶりの彼の予約に、私は〝しこみ〟を終えて深夜勤務に入った。若い頃、一度だけした不倫の恋を思い出す。明かせない秘密を抱えた緊張感と禁断の暗黒の森に一緒に入っていくような恐怖感が走り始めの恋を加速させた。
 朝になるのを待つ時間は、万一のほころびへの不安が織り交ざった快楽へのカウントダウンだ。
 チェックアウト間際にはフロント業務を外れ、事務処理に集中しているところ、サブマネから「今日は、仮眠はどうされますか。」と声をかけられて時間の経過に気が付いた。
 清掃待ちの部屋はすでに10を超えているが1105室はまだだった。
「いつも早朝チェックアウトの1105号室まだですね。」
 サブマネの記憶力はやはり侮れず、鈍さはいつしか鋭角になっている。
「そう。あともう少しでこの処理も終わるからそれから仮眠しようかな。」
 ばれた・・・そうおもった。レコーダーの存在が発覚し、今、アルジーは信頼できる弁護士かブレインにでも対策を相談しているのか。何も言ってこない静けさが事の重大さを思わせた。
 チェックアウトの11時を回り、部屋に連絡を入れるも応答がない。過去、一度も時間をオーバーしたことのない常客は、永遠にチェックアウトをすることはなかった。
 アルジーの部屋はいつもの整然さを保ちながら時代遅れの整髪料の香だけが強く漂っていた。
 

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