「いいことはないだろう」
「そうだぜ。どういう冗談なのか分からないが、こりゃよくねえ」
「本当にいいんだ。思い当たる節があるし、兄貴達は気にしないでよ。とりあえず今日は疲れたし、俺は先に休むよ」
それだけ言うとあっけに取られた兄二人を残して立ちあがって襖を開け、部屋を後にした。二階に上がり、今では帰省時しか使わない、中学生時代からの自室に戻ってベッドに座る。
「お前は俺と来るんだよ。ボードリヤール。東京に来るんだ」
勉強机の上で寝ている猫のボードリヤールに言う。茶トラ柄をした毛の腹の辺りが寝息に合わせてかすかに上下している。相変わらずの大猫だな。子猫の時から脚が太かったから大きくなるとは思ってたけど、本当にかなりの大猫になった。
「他には何か遺してもらえたのかよお?」
ボードリヤールが片目を薄く開けて答えた。
「いいや。何も。お前だけだったよ。長男が会社と金融、次男が家」
「だろう。あんたは『金なんてただの紙切れ』って親父さんに言ってたからな」
「ああ、『猫と一緒にほどほどの暮らしが出来れば俺は幸せなんだ』とも言った」
「本ばっかり読んでるから馬鹿正直にそんな浮世離れしたこと言っちまうんだぜ、ご主人。適当に親父さんに話を合わせとけば少しはこっちだってもらえたかもしれないのによ」
そう言ってボードリヤールは尻尾で円を作る。「金」の印だ。人間が親指と人差し指で作るのをどこかで見て覚えたらしい。