小説

『ネコソーゾクの兄弟』楠本龍一(『長靴を履いた猫』)

冷めた不味いコーヒーを、ちっぽけなインチキくさいマドラーで無意味にかき混ぜながらそう答えた。ボードリヤールは食べ終わった猫缶を弄びながら聞いている。
「俺なら」ボードリヤールが切り出す。「ご主人を大金持ちにしてやることだってできるぜ」
何故だかこの猫は自信満々だ。だけど、と俺は思う。
「いや。別にそういうことを望んでるんじゃないんだ」
「ご主人はそう言うだろうね。何が望みなんだい? 子猫の時に助けてもらったあんたのことだ。力になるぜ」
ボードリヤールの緑色の目を覗き込んだ。様々な濃さの緑色の絵の具を水に溶かしたみたいに深みがあって、じっと見ていると吸い込まれそうな感覚だ。
「それが分からないんだよ。ただ何となく不安なんだ。きっとみんなそうなんじゃないかな」
ハンバーガーショップにいる周囲の客を見まわした。どの顔も表情が無いか、それでなければ怒りっぽい顔をしているように感じる。どれも孤独な姿だ。
「ふうん。そんなもんかね」
ボードリヤールは俺の言葉にピンとこないようだったけど、特に肯定も否定もしなかった。
こうして俺はやはり、どこか不安な気持ちを払しょくできないまま、日々の生活に埋没し続け、ボードリヤールも、そんな俺に対してそれ以上何かを言うこともなくただ毎日を過ごしていた。そうする間に、俺は女にフラれたり、逆に付き合い始めたり、サークルを卒業してみたり、卒業論文を出してみたりと、その時々には何となく大事だと思えることを経験していたのだが、過ぎ去ってみると、どれものっぺりとした記憶に過ぎなくて、結局俺は何も変わっていないと思えるのだ。こうして一層漠然とした掴みどころのない不安感が増すのだった。ボードリヤールの方でも一人で出かけることもあれば、俺と一緒のこともあり、それなりに暮らしているようだ。狭い玄関に無骨なブーツがあるかないかで、ボードリヤールが部屋に居るのかそれとも出掛けているのかが一発で分かった。これで別にいい。特に問題もないじゃないか。そう考えて俺は消えない不安感を押し込めながら毎日を何とかやり過ごしていた。だが、その間にも心の中に少しずつ積もり積もった不安がもはや無視できない重みになっていくのは感じていて、誰もいない部屋で一人ふさぎ込む日が増えた。そんなある朝、遂に俺は寝床から起き上がれなくなった。頭では起きて出かけなければいけないことは分かっているのだが、絶望的に心が重く、それが身体の重さとなってどうしても起き上がれない。それから長い間全く出かけないでいたのだから当然と言えば当然だが、アルバイトをやんわりとした口調でクビにされ、就職先も決まっていないという状況に入り込んでいた。医者にもらった睡眠薬に頼りながら、毎日ほとんどを布団で過ごしたのだが、あまり寝られないままほぼ一日中時計の秒針の音を聞き続けていた。
 

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