小説

『三年目の彼女』近藤いつか(落語『三年目』)

ツギクルバナー

 亜子さんはハチミツの香りのする変人だ。
「ねえ、歯茎見せてよ」
 人は亜子さんのことを美人だという。亜子さんに出逢った男は、こんな素敵な女性に巡り会ったことはない、と頬を赤くして賛辞を送るのだが、翌日には真っ青な顔をして残念だ、と嘆く。
「人が見ているから嫌だよ」
「いいから、いいから」
「信号、赤になる」
「いいから、いいから」
「無理だよ」
「いいから」
「あとで」
「やだ。今じゃなきゃやだ。歯茎。歯茎。歯茎。は・ぐ・きーーー」
 そういって亜子さんは横断歩道のど真ん中で僕の口を無理やり開く。
 周りの人の視線が痛い。笑い声が痛い。そして何より口が痛い。
「ふむふむ。歯茎占いによるとね、歯茎がピンク色の人は唇の厚い人と相性が良いんだって……例えば、わたしとか」
 そう言って僕の顔をイタズラに覗き込む。
 僕は亜子さんの目を見るたびに純真無垢な子猫を思い出す。
 瞳は大きく幼い印象を与えるわりに、スッと通った鼻筋や全体の印象はむしろ知的で大人びた雰囲気を持ち合わせていて、そのくせ笑うとえくぼがくっきりと見えるので、男の僕でも、ズルいよ、と口を尖らせたくなる。
 触れるのもためらわれるほど透き通った白い肌。つややかな黒髪は背中の中ほどまで伸びていて、いつもここからハチミツの香りがする。その香りに騙されて、どんなことでも許してしまう僕がいる。
「この間までハマってたメガネ占いはどうしたの」
「あぁ、あれ、当たんない当たんない。だってそもそも人間、メガネ掛けて産まれてこないじゃない」
 そのメガネではわたしと相性が悪い、と言って僕のメガネを海に投げ捨てたのはつい一週間前のことだ。亜子さんは悪びれもせず、ふわりふわりと蝶々のように歩きながらお気に入りの喫茶店へ花にとまるように入っていった。
 亜子さんは自分が美人だと自覚している。
 美人だからといって幸せなわけじゃない、というのは亜子さんの弁だ。たいがいの女性は亜子さんを敵視し、声をかけてくる男はたいがい軽薄。そんな場面を見た女性の憎悪は深まるばかりの悪循環。
 そう言って亜子さんは小指で器用に鼻をほじる。
 

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