小説

『ルンペル』田中りさこ(『ルンペルシュティルツヒェン』)

「ち、違うよ。ルンぺルさんが出してくれたの…」
 沙織は手に持っていたラーメンも消えてしまっていることに気が付いた。
「え? なんだ? ルンぺルさんだと? 男か。お前はよ、小さいと思っていたら、母親と同じだな。男に色目を使うのか」
 父親は沙織を床に投げつけると、壁を蹴り上げた。沙織は身を縮めた。
「違う、違うよ」
 泣きながら体を丸める沙織に見向きもせず、父親は台所に向かい、酒瓶を出した。
「おい、酒がねえじゃねえか。金がなけりゃ、酒が買えない。パチンコで大負けするわ、全部お前のせいだ」
 父親は空の酒瓶をさかさまにして、なめるようにしゃぶった。
「畜生、畜生」
 沙織は父親が怒鳴りつけるのを聞きながら、じっと身を丸くしていた。

「おい、起きろ」
 沙織が目を開けると、月明かりの中にルンぺルが心配そうに沙織を覗き込んでいるのが見えた。
「ルンぺルさん、ラーメン、全部食べられなくて、ごめんなさい」
 ルンぺルは「ラーメンはいい。けがはないか?」と聞いた。
 沙織は「ねえ、どうしてルンぺルさんは私によくしてくれるの?」と聞き返した。
 ルンぺルは「おい、俺が先に質問したんだ。体は大丈夫か」と言った。
「うん、慣れっこだもん。今日は突き飛ばされただけで、殴られたりしなかったし、全然平気だよ」
 沙織は笑顔で答えた。ルンぺルは「ふん、そうか」と言った。
「俺は何も親切でお前によくしたわけじゃない。食べかけとはいえ、ラーメンを出してやっただろう。代わりに何かくれ。さもないと、お前の魂をいただく」
 沙織は少しばかり首をひねって考えた後、「これでもいい?」と言って、ランドセルから折り鶴を取り出した。
「今日、休み時間亜紀ちゃんと作ったの」
ルンぺルは折り鶴を受け取り、すっと姿を消した。

 それから、ルンぺルは時折沙織の元に現れた。現れるたびに、沙織に食べ物を出してやった。代わりに沙織の物を何かもらっていった。
「辛くはないか?」
 ルンぺルが尋ねると、沙織は焼きそばパンをほおばりながら聞き返した。
「何が?」
「父親のことだ。いつも暴力を振るわれて」
「いつもじゃないよ。それにお父さんは悪くないの。お母さんが別の男の人と出ていったから、お父さんの心が悲しくなってしまったの」
 沙織は笑顔になって、言った。
「それに、私にはルンぺルがいるもん」

 ルンぺルが沙織の元に現れるようになって、八年の月日が流れた。沙織は高校三年生になっていた。
「おい」
 ルンぺルが沙織に声をかけた時、沙織は目から涙を流していた。ルンぺルに気が付くと、沙織は枕に顔をうずめた。
「泣き顔を見ないで」
「どうして泣いている?」
「ルンぺルに言う義務なんてない」
 そのあとは沙織の押し殺した鳴き声が狭い部屋に響いた。しばらくしてルンぺルが言った。

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