小説

『ルンペル』田中りさこ(『ルンペルシュティルツヒェン』)

 男は赤ん坊を抱いた沙織を引っ張り、部屋に押し込んだ。昔、三日間沙織に金を作らせた部屋だ。男は外からカギをかけた。
「ねえ、出して」
 沙織が中から扉をたたくと、男は言った。
「今晩中に何とかしろ」
「ねえ、赤ん坊が泣いているわ」
「うるさい。そいつの命もないぞ」

 泣きつかれた赤ん坊が眠りにつき、沙織は窓から外を見た。二階にある部屋からは到底赤ん坊を連れたまま逃げたすこともできない。
 風が吹き、バルコニーから声が聞こえた
「沙織」
ルンぺルだった。沙織は突然の来訪者に首をかしげた。
「あなたは誰? どうして、私の名前を知っているの?」
ルンぺルは言った。
「困っているようだね。代わりに君は何をくれる?」
沙織は肩をすくめた。
「何も。私は何も持ってないわ。すべて夫から与えられていただけ」
 それが本心だった。結婚して一年、有り余るものを夫は与えてくれた。でも、それはすべて夫のもので、沙織はただそれを与えられている側にしか過ぎない。
「君は幸せかい?」
「幸せ、かしら? 昔のように、飢えに耐えたり、寒さに凍えたり、父の暴力におびえることもない。でも…」
 沙織は自分を抱くように腕を体に回した。
「幸せは、母さんが出ていった時から、私のもとから無くなってしまったの」
 ルンぺルは言った。
「君のお母さんは、君の幸せを願っていたよ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「君のお母さんの魂と引き換えに、君を見守ると約束したから」
 沙織は、ルンぺルの目をしっかり見た。
「本当なの?」
「嘘をつく理由がない」
 本当の話だった。人間はおかしいものだ、とルンぺルは思った。死にかけの女の元に命を救ってやる代わりに魂をよこせという契約を持ちかけた。すると、その女は微笑んでいったのだ。
「私には娘がいるの。沙織というとても、いい子なの。私の魂をあげるわ。その代り、娘を見守って」
 自分の捨てた娘を見守れなど都合のいいことをいう女だが、魂をもらった以上、ルンぺルは約束を果たさなければならない。

1 2 3 4 5 6 7 8