小説

『となりの桜子さん』陰日向(『トイレの花子さん』)

「すすすみません。あ、足が……」
「もしかして、緊張してるの?」
「私、トイレから出るの……は、初めてなんです。大丈夫でしょうか」
 私の膝は、わずかながらブルブルと震えていた。
「だぁいじょうぶ、大丈夫よぉ。私が一緒なのよ。……とぉぅっ!」
 花子さんは、菩薩のような優しい微笑みを向けてきたあと、私の足めがけてローキックを繰り出した。私はその威力に倒れそうになるのを何とか堪えた。
「何するんですか、花子さん」
「震える足にはローキックっていうことわざがあるでしょ?」
「ないです」
「ほら、あなたの足、見てごらんなさぁい」
「あっ」
 確かに足の震えが治まっていた。
「本当ですね。でも……」
 私の拳は怒りで震えていた。
「震える、手にもローキックぅ」
 花子さんは、暴力的だった。
 そのまま歌いながら行動に移しそうだったので、私は必死に手の震えを抑えた。
「じゃ、心の準備が整ったところで行くわよ」
 花子さんを先頭に、私たちはトイレから足を踏み出した。
 トイレを出ると、廊下が左右に伸びていて、右は行き止まり、左に行くと新校舎へとつながっていた。
「これは……」
 新校舎に足を踏み入れると、可愛らしいクリーム色の壁が目に飛び込んで来た。窓は曇りがひとつもなく、そこから入る陽光で廊下は一際明るい。壁全体が灰色でどんよりと暗い旧校舎とは、全てが真逆と言っていいほど違いは明らかだった。
「うっひゃー。久しぶりにこっちに来ると、綺麗でたまんなぁい」
「花子さん……」
 はしゃぐ花子さんとは対照的に、私の心は沈んでいた。
「これじゃぁ、私たちのところなんかに来てくれないですよね」
「どういう意味?」
「やっぱり……みんな新しいトイレの方がいいのかなって……」
 こんなに建物が綺麗なのだ。きっとトイレも快適なものに違いない。私は言いながら俯いてしまった。
「桜子さん、元気をだして」
 花子さんが口にした言葉に、私は思わず顔を上げた。
「花子さん。ようやく私の名前、覚えてくれたんですね」
「えぇ。しかた……もちろんよ」
 少し引っかかったが花子さんが名前を覚えてくれたことに、私は嬉しさがこみ上げた。

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