小説

『ランプ屋』林ミモザ(『こぶとりじいさん』)

 数日後、彼女はランプ屋の階段を降りていた。今日もカウンターに他の客の姿はなく、こんなことでやっていけるのだろうかと他人事ながらも気になるが、今はそんなことよりも、この深刻な問題を早くマスターに聞いてもらいたい。
「ああ、いらっしゃい。お元気でしたか?」
 相変わらず黒ずくめのマスターは、前回と同じようににこやかに迎えてくれた。
 美咲は注文も、珠美先輩の事件以後の報告もそこそこに、暗礁に乗り上げている結婚の悩みを打ち明け始めた。
「ひどいんです。まるで彼のことを悪い人みたいに」
「うーん。でもそれはあなたの幸せを願えばこそじゃないのかな」
「彼とはとても気が合うんです。それに私は絶対に二十八歳までには結婚したい、小さな頃からの夢なんです。なのにこのままじゃあ…私の夢を壊そうとしているとしか、思えません。いつまでも子どもだと思ってる。人格の否定だわ」
 マスターは同情のこもった眼差しで彼女を見つめた。ホットチョコレートをことりと置いて、訊ねた。
「あなたが今夜来た理由は、それなんだね?」
 美咲はカップに唇を寄せると、ほうっと息を吐き、瞳を見開くと、きっぱりと頷いた。

 数時間後。
常連客の男が店のドアを開けた。以前この店の階段で、美咲とすれ違ったあのサラリーマンだった。
 カウンターの手前二つ目の席にカバンを置くと、男は「あれ?」とつぶやいて隣を見た。マスターが声をかける。
「お疲れさん。今日は早いね」
「ああ、ノー残業デーだ…それより例のあの娘、だろ?ここにいたの」
「そうだよ」
 カウンターの上には美咲の指輪やピアスが、チェアには彼女の身に着けていた衣類が、そして床の上にはバッグや傘や靴が、転がっていた。
「――もしかして彼女、最後に…」
「そう。どうしてもってね。この娘のご両親は出来た人たちだったと思うんだが。わからなくなったらしい、親の愛情が」
「そうか…。仕方がないよ、本人が邪魔だと思っちまったらなあ」
「自分の出生の、その元を消すってことがどういうことか、想像できなかったんだな。やはりここに来るには未熟すぎたよ、彼女は」
 そう言うと、マスターは消失した美咲の遺物を片付け、ホットチョコレートの残ったカップをカチャカチャと洗った。
「あ、マスター、また突き出てるよ」客の男が、ニット帽を指差して笑った。

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