小説

『浦島太郎』浴衣なべ(『浦島太郎』)

 仲睦まじい二人のやりとりを見て、全てのことが許容できると思っていた私の気持ちは呆気なく萎んだ。この空間に私の居場所はなく、まるで邪魔者みたいに扱われているような気がした。私は誰にも気づかれることなくひっそりと消えてしまいたいと思った。
 彼を送っている最中、私の心はどこかにいってしまったみたいに頭の中が空っぽになった。思考することができず、なにも判断出来ないまま女主人の言いつけを守り彼のために体を動かした。
 もう、やるべきことはやったのだ。何も考える必要はない。
 自分の決意が鈍ってしまうことだけが恐ろしくて、私はずっと前だけを見据え、彼から目を背けつづけた。
 私と彼が出合った浜辺に辿りついたとき、日はとっくに沈み、頭上では満天の星空が輝いていた。
「少し、寒いな」
 彼が屋敷に来てから数か月が経過していた。いくら屋敷が気候の変化に乏しいとはいえ、時間はあらゆる場所で平等に流れている。当然、季節は変わっていた。悪意としか言いようのない熱を放出していた太陽ですら今の私には懐かしかった。
「お勤めご苦労。屋敷に戻るときはまた頼む」
 彼にそう告げられた。この期に及んで、彼に感謝の言葉を言われるだけで無条件に心が弾んでしまう自分のことが恨めしかった。この感情はもはや、呪縛に通ずるものがあるのではないだろうか。
 別れ際、私は意を決して彼に、玉手箱は絶対に開けてはなりません、と伝えた。
「どうしてだ? 玉手箱を開けなければ、屋敷に戻れないのではないか?」
 私は彼の言葉を無視して、いいですか、絶対にですよ、私はちゃんと言いましたからね、と言い一方的に会話を打ち切った。そして、颯爽と帰路についたつもりだったが、如何せん私の体は敏捷な動きに向いていなかったので、急げば急ぐほどバタバタとしたみっともない動きになってしまった。
「ありがとう、また会おう」
 背後から彼の声が聞こえてきた。その瞬間、私の涙腺は決壊した。空に浮かんでいる星のような粒がいくつも眼球から顎に向かって零れ落ちていった。まるで水中にいるときみたいに景色が滲み、鼻の奥に塩辛いものを感じた。肺が痙攣し呼吸が上手くできなくなり、漏れそうになる嗚咽や呻きを必死で堪えた。長い長い時間をかけて、私は彼のいる浜辺から脱した。
 帰り道。私の頭の中には幾重にも重なったごめんなさいという言葉が響いていた。
私は決して悪くない。だって、ちゃんと開けたら駄目だと忠告したんだから。これから何が起こっても私の責任じゃない。そもそも、私をここまで追い込んだあなたたちが悪いんだ。しょうがないじゃない、こんなこと耐えられるわけないよ。誰だろうと、きっと私と同じ行動をとるはずだ。むしろ、私は我慢した方だ。褒められるべきであって、責められる筋合いはない。だから……お願い私のことは許して!
「自分に近しい相手を選びなさい。そうすれば、例え何があっても必ず幸せになることができるのだから」
 ふと、母の言葉が心の中で蘇った。
私は玉手箱を開ける彼を想像しつつ、毒を持つウミヘビに接触しないよう気をつけながら屋敷へと向かった。

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