正直よく分からなかったが、私の言葉で彼は気持ちを落ち着かせることができたようだ。あまり実感が伴わなくても、やはりそれはとても嬉しい出来事だった。
「ようこそいらっしゃいました」
私は彼をこの屋敷の女主人の元へと案内した。女主人は客間で私たちの到着を待っており、歓迎の言葉を言い終わると深々と頭を下げた。
この地域一帯に縁のあるものは、皆この屋敷に住み込みで働いていた。私の母も、母の母も、そのまた母の母も、ずっとそうだったらしい。何故そうなっているのか分からないが、私はこの屋敷も女主人のことも気に入っておりその習わしに不満はなかった。
私たちを出迎えた女主人は十二単に身を包み、白粉を薄く塗って控えめに紅をさしていた。袖から僅かに覗く指先は形が良く、一つに束ねられた漆黒の長い髪は触れなくても滑らかであることが分かった。いつ見ても、本当に美しい。こんなに艶やかな女性のためだったら、むしろ喜んで奉公したいと常々思っていた。
私は、浜辺での一件を女主人に伝えた。
「それはそれは。当家に関わりのあるものがお世話になり誠にありがとうございました。たいしたおもてなしなどできませんが、どうぞごゆるりとしてください」
微笑を湛えながら女主人がこちらへ数歩近づいた。
「さあ、こちらへ」
歓迎の意を表したつもりなのだろう、女主人は手を彼に差し出した。
「…………」
しかし、彼からの反応はない。
「如何されましたか?」
女主人は小首をかしげた。香でも焚いていたのだろうか、女主人から千里香の香りが漂っていた。
彼の態度を不審に思い私は横目で様子をうかがってみた。
すると彼は、口をだらしなく開けていた。眼球が零れ落ちてしまうのではないかと心配になるほど目を大きく見開いて、女主人のことを凝視していた。
ああ。私はこれがいったい何なのか知っている。
「大丈夫ですか?」
少し間を空けてから改めて女主人が声をかけた。
「……あっ。いえ、大丈夫です。その、初めて訪れる場所で緊張してしまって」
その言葉が真実ではない辻褄合わせだということを私は分かっていた。けれど、先ほどの彼の緊張がほぐれたという発言がなかったことにされたので、私は悲しい気持ちになった。
「緊張など不要です。我が家のようにくつろいでください」
女主人に手を引かれ、彼は別の部屋へと移動した。
最後に、女主人から声をかけられた。
「ご苦労様でした。もう下がっていいですよ」