小説

『背伸び、しない!』原豊子(『狐と葡萄』)

 さっと足を踏み出した私に、深谷がよろよろとおぼつかない足さばきでついてくる。深谷の言いたいことも、わかる。新卒のゴールデンチケットは今しかないと、就活講座で耳にタコができるほど、聞いた。
 けれど、もういいのだ。
 私みたいな、貪欲に上を目指すこともなく、そこそこの満足で生きてきた人間が、立てるようなステージではなかったのだ。ちらりと、きれいな就活鞄の中に、大人の絵本シリーズイソップ童話の背表紙が見えた。キツネが高い所にあるブドウを取れなくて、「どうせあのブドウはすっぱいんだ」と強がりを言って去っていくお話。あーあ、せっかく短いやつを見つけて、装丁の隅から隅まで眺めたというのに。
「……高い所にあるブドウの実、かあ」
 私は手の届く範囲で十分だ。上を見上げれば、それはそれは想像を絶する美味しい果実が、あるのかもしれないけれど。最近は本当に高い所を見上げすぎて、体が、首が、疲れちゃった。それに、背伸びをしない範囲でも、おいしい果実はたくさんある。これで、いいのだ。私の人生は、こんなもん。

『ヤバいよ芹香……もう一週間? ぐらい? 家帰ってない』
 代々木公園を散歩していると、深谷からの着信があった。ぎらぎらと降り注ぐ陽光を避け、木陰に腰を下ろしながら「もしもし」と出ると。何の前置きもなしに、掠れた深谷の声が、耳に飛び込んでくる。
「まじ」
『ヤバい、超ヤバい、土日も普通に出勤だし……なにこれ、ブラック? 覚悟はしてたけど』
 時折吹き抜ける風が、なんとも心地よい。平日の午前中とあっても、ここは閑散とすることがないから、不思議だ。今年に入って、この近くに引っ越して、初めて知ったことだった。
『今もさ、社員が死屍累々としてるんだ……私漫喫でシャワー帰りなんだけど、まじあの空間に戻りたくない。だってなんか臭いし理不尽に怒鳴られるしセクハラだし』
 はあー、とため息を漏らしながら訴える声に、私は「ふふ」と小さく笑う。ろくに眠れず疲れ切っているだろうに、私に電話をかけてくる深谷の体力と根性は本物だ。そして、ストレスも。
『まじブラック。ブラック超、超!』
「はは、そうか」
「本当。化粧する暇もない。もう、社内ではスッピンだよ……てかあんた、今何、何してんのどこにいんの」
 学生時代、深谷はどんなに忙しくても、身だしなみを崩したことはなかった。何度も泊まりに行ったことがあるから、スッピン自体は見たことがあるけど。
 超ブラック、かあ……入んないで、ほーんと、よかった。
「代々木公園、散歩してるとこ」
「っはー! 公認会計士の奥さまは気楽ですこと!」
「へへ」
 ほらね。
 たかーいところにあるブドウを諦めても、私の人生なんとなくうまくいっている。

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