小説

『背伸び、しない!』原豊子(『狐と葡萄』)

「うん。信じられないなら通帳見せる。で、もうそろそろ三年目なるだろ。貯金も十分たまってるし、そろそろ結婚したいかなあ、と」
 確か以前、克季は使っても生活費は家賃込で十五万ぐらいだと言っていた。ということは三十五万づつ月でたまって……八百四十万。それにボーナスもあるはずだから、多分それ以上ぐらい……。
「ていうか、それ何時の話?」
「今からだったら結婚式ゆっくり準備できるし、俺が考えてるのは来年四月ぐらいかなあ」
 来年の四月って。
「それって……私に就活するなって、こと?」
「そこまでは言わない。ただ、芹香が働かなくても十分俺の稼ぎでやっていけるから、そういう選択肢もあるよって事」
 思わず、克季をじろりとにらむ。それに、びくついたのか克季は肩を小さく揺らし、
「嫌かな」
と遠慮がちに聞いてきた。
「嫌じゃないっす、すっごくとびつきたいありがたい話っす」
 就活をしなくてもいい。働かなくていい。これ以上名前も知らないおじさんおばさんに、意地悪な質問をされることもない。なにより、今年一年思いっきり遊んだ後も、その後の人生ずっと夏休みだ。掃除も洗濯も料理も嫌いではない。夜遅い克季を待ちながら作る夕食。朝は彼よりも早く起きて、目玉焼きを焼くのだ。そして、いってらっしゃいのちゅー、ただいまのハグ。克季と二人の生活―……想像するだけで、よだれが出るくらい楽しそうだ。
「とりあえず、持ち帰らせて頂きます」
「色よい返事をお待ちしております」
 三つ折りついて、深々と頭を下げる。いったいこれを見た何人がプロポーズ直後だと気が付くだろうか。
 その後、持ち帰った仕事があるという克季と別れ、ぎらぎらとライトの照った街を一人、ぶらぶらと歩いた。結婚、結婚、結婚かあ。卒業する時は、二十二歳。四年制大学に入れてもらって、しかも有名私立で、一人暮らし、就職もせずに結婚したら、親は嘆くかなあ。いや、でも、条件の良い相手を捕まえられたという結果を見れば、この大学に入った意味はある。あーどうしよう。まず親に連絡かな。いやいや、親に相談するのは自分の心が定まってからだ。まずは……そう、深谷だ。深谷に相談だ。スマホはどこだっけ、とポケットに手を伸ばした瞬間、ぶるっとやつのほうから振動で存在を伝えてきた。ああ、こんな新機能あれば「携帯どこだっけ!?」って焦る人は減るのかもしれない……馬鹿なこと考えてないで、メールだ。
 すいすいと指で画面をタップしていくと、現れたのはリクナビの文字。おう、まさかこのタイミングで面接結果通知か。あの山姥面接の。前回のことを踏まえ、期待はしない。人の邪魔にならないビルの壁際により、インターネットを開く。ログインをして、企業からのおしらせ欄を開いた。大館パブリッシング、一次面接結果のおしらせ。
 ……ええい、ぽちり。
「……まじかよ」
 山姥面接、まさかの通過……。
「はは」

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