小説

『空の箱』湊杏(『浦島太郎』)

「なんだよ…ははっ、」
 拍子抜けして箱を海に落とせば、まるで誰かが見ていたかのように、少し大きめの波が、箱を奪っていった。
 これで彼女がいた証拠は消えてしまった。いや、彼女が脱いでいった服はあるか、そうだ、妹の服を来たまま彼女は帰った。妹にあやまらないといけない。
 いろんな考えが浮かんでは、波にさらわれるように消えた。
 その時。
 ぼうっと水平線に、いっそうの漁船が見えた。
 おかしい今の時間は誰も漁にでていない。それどころか、ここら一体の漁師は今うちで葬式しているのだ。
 もしかしたら密漁者かもしれない。
 乙姫との不思議な邂逅もつかの間、急いで漁港の方へと駆けていく。
 船はずんずんと近づき、自分が堤防の端にたどりつく頃には、すっかりと、はっきりと、漁船の名前まで見えた。
「竜宮丸…」
 間違いない。親父の船だった。
 そんなはずない、親父の船なわけがない。
 そう思っても、船体の文字は変わらない。
 船はどんどん近づき、ついには船着き場に着いた。
 呆然と眺めていると、操舵室からやけに黒い男が一人出てきた。何者かと目をよく凝らしてみれば、その正体に腰が抜けた。
 真っ黒に日焼けした。親父だった。
「親父…なんで」
「よう、ははは、おでむかえか?実は嵐でフィリピンの方まで流されてな、あっちで燃料分だけ働いて戻ってきたのさ」
 白いばかりで並びの悪い歯をにかっと出して、親父はフィリピン土産をたからかに掲げて見せていた。
 親父は、今まさに自分の葬式が行われていると知ったら、どんなに驚くだろうか。
 家族に、親戚に、漁師仲間たちに、なんといいわけをするのだろうか。
 乙姫様がやってきた話を。どういうリアクションで聞いてくれるだろうか。
 俺が、親父ともう一度話したいと、どんなに願っていたかを知ったら、笑うだろうか。
 つもる話しはたくさんある。でも、とにかく親父に話したかった。
 今日、好きな人ができたことを。

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