小説

『空の箱』湊杏(『浦島太郎』)

「ちょ…待って殴らないで!」
 一方的に叱咤される自分を見かねてか、おずおずと乙姫が間に割って入ってくれた。
「ちょっと待ってください。おばあさま、太郎様を殴らないであげてください。それに、私状況が飲み込めないのです…この家系図は一体」
 祖母は乙姫に向き直ると、悲しげな顔を浮かべた。
「申し訳ありません。ここにいるものは「太郎」はないのです。確かに血は引いておりますが、彼は虎太郎。太郎の子孫でございます」
「あはは子孫?だって、私が太郎と別れたのはそうね、だいたい1年ほど前のことよ。地上に隠し子がいたとして、こんなに大きいわけがないわ」
 じっと、乙姫はこちらの顔を見つめるが、その表情には焦燥が見られる。自分がどんなに太郎と似ているのかはわからないが、別人であることが分かり始めたらしい。
「乙姫様。竜宮と、地上では流れる月日が違うのです」
 祖母は棚から一冊の絵本を取り出すと、乙姫にそれを渡した。題目は浦島太郎。子供の頃幾度となく読み聞かされたものだ。
たった数ページの物語を読み終わる頃には、乙姫はぽろぽろと涙を流し、そっと、愛おしそうに本を閉じた。
「…この後太郎様はどうなられたの?」
「村の娘と夫婦になり、子が産まれた頃に亡くなったと記録されています」
 祖母とこちらを交互に見てから、乙姫は涙を拭い、優しげな表情で微笑んだ。
「そう…子をなしたのね。それが、あなたたち」
「ええ、アナタがもし会いに来たとき。自分の代わりにと」
 祖母はこちらに向き直ると、こほんと一つ咳払いをした。
「だから、アンタが乙姫様をもてなすのよ。」
 目の前で繰り広げられる茶番劇に、傍観者を決め込んでいたものだから、びくりと体が震えてしまう。
「代々の遺言にはこうある。太郎の名を次ぐものは一宿一飯の恩を忘れてはならない。もし、乙姫と名乗る者が目の前に現れたら、盛大にもてなさなければならない。わかった?虎太郎」
普段、絶対冗談なんか言わない祖母が、迫真の演技で、迫ってくる。座ったまま後退しながら、おそるおそる口を開いて見せた。
「あのさ…。乙姫様なんているわけないじゃん。この人もちょっとその、冗談で言ってるだけで…」
 乙姫は悲しげに顔をうつむかせ、祖母はそれを聞いたとたんに、思い切り頬を叩いてきた。
「痛ぁっ!」
「この人が本当の乙姫様だろうと、そうでなかろうと、そんなことはどうでもいいんだ。大事なのは「乙姫が訪ねてきた」という事実だよ」
 祖母のあまりに盲信的な瞳に、恐怖すら感じた。乙姫は祖母の言葉により一層身を縮こませている。
「でも…だって、ばあちゃん。ボケちゃったのかよ、今日は親父の葬式なのに…なんだって、今日に限ってそんな冗談…」
 ずっと、こらえてきたのに、涙がこぼれそうだった。祖母の横柄な対応に、目の前で存在し続けるおとぎ話もどきに、親父の死に。
「そうさ、本当はこの仕事は、啓太郎の仕事だったのに…大事な時に死んじまって…」
「そんな言い方…!」
 祖母につかみかかろうと、あげた手を引っ込めた。祖母の目にだって涙が潤んでいる。あたり前だ。息子を失ったのだから。
「とにかく、あとはお前に任せたよ」
 祖母は立ち上がると、そそくさと部屋を出ていった。
 決して広くはない部屋に二人残され、しばらくの沈黙が続く。乙姫はぱっと立ち上がると、こちらをただ見つめていた。

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