小説

『空の箱』湊杏(『浦島太郎』)

「僕の名前は浦島虎太郎です。なんなんですかアナタ」
 またか、と心底ため息が出た。昔からそうだ。浦島太郎。浦島太郎と、バカにされてきた。この女だってそうだ。どこから聞きつけたのか、きっとおもしろがりにきたのだ。
「そんな、だって、あなたは太郎様です!さっきだって暴漢から私を助けてくれた…。私のこと覚えていますよね、私です。乙姫です!」
「うるさい、アンタさっきから失礼だぞ。乙姫様のコスプレだかなんだか知らないが、僕を巻き込むな!」
 乙姫と名乗る女性は、打たれたような顔をすると、おいおいと泣き出した。
「私は乙姫ですー、アナタは太郎様なのです!」
「だから…ああもう。知るか」
 浜辺をあがり、家路へと戻る。三歩後ろを乙姫が付いてくるのが、すれ違う人の視線でわかった。だが、振り返ったりなどはしない。振り返れば、それは、彼女の存在を認めることになってしまうからだ。
 家へつくと、皆が皆、後方の乙姫にギョッと目を向けた。そりゃ、そうだ。一応死んだ親父の息子。立場上は喪主だ。ふらりと勝手に外へ出て、さらに奇っ怪な女を連れて帰れば、良い顔なんてされるわけがない。
「虎太郎ちゃん、その子誰?」
「知らない人」
 叔母の問いかけを一蹴し、開かれたままの玄関へと入る。
「太郎様!」と叫ぶ乙姫を振り切るようにして扉をしめた。中の人々も、きっと外の人々だって驚きに顔を固めていた。
 外からはただ、泣きじゃくる声が聞こえてくる。
「入ってくるな!」
 皆の奇異の視線を振り払うようにして、ドカリと席に腰を下ろす。あまりの迫力にか、横に座っていた魚屋のおじさんが、オレンジジュースをお酌してくれた。
「どうしたんよ、こた坊」
「さぁね、知らない…変なコスプレした奴に。浦島太郎って間違えられただけで、なにも、なかったですよ」
 一同は、「またか」と盛大に大笑いした。昔も今も、こうして名前をバカにされたものだ。
うちの家系では、代々長男には「太郎」と名付けるのが習わしだったそうで、父の名前は啓太郎。祖父の名前も弥太郎。まぁ、とにかく。「浦島」という名字をいいことに、浦島太郎にひっかけた。先人の何世代もかけたしゃれだった。
 全く、はた迷惑な話だ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
 妹がそっと、隣に座る。赤く腫らした目が、なんだか痛々しかった。
「なんだよ」
「いやね、そのコスプレの人って女の人?」
「あ?ああ…」
「長い黒髪の」
「ああ」
「びらびらーって、着物みたいなの着た」
「そうだ」
「たろうさま?って叫んでる…」
「お前なんでそこまで知って…」
 なんでそこまで知っている?そう口にする前に、妹の視線が、自分に向いていないことに気が付いた。妹だけではない。部屋にいたすべての目が自分を通り過ぎて、後方へと向いていた。皆の視線に沿い、ゆっくりと振り返れば、窓に乙姫がへばりついているのが見えた。
「太郎さまぁあ!」
 ぐちゃぐちゃの顔で、涙や鼻水を窓ガラスに擦りつけながら、乙姫は叫んでいた。

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