小説

『空の箱』湊杏(『浦島太郎』)

 親父が死んだ。
 一ヶ月前の嵐の日、みんなが止めるも聞かずに、たった一人で漁へ出て、文字通り、そのまま帰らぬ人となった。
 空っぽの棺桶を前にしめやかに葬式は続き、箱だけが煙となって秋風に溶けていった。
通夜も告別式もほとんど宴会のようだった。酒臭い親戚連中や、漁師仲間。やつれたままお酌をしてまわる母親、泣きっぱなしの妹。すべてが本当に嫌になり、外の空気を吸ってくると、家を飛び出した。
 観光客もすっかりはけた海辺を、とぼとぼ一人で歩いていく。何気に嗅いだ制服は、飲んでもいないのに酒臭かった。
 しばらく歩いていると、男が三人ほど、浜辺で突っ立ているのが見えた。
「無礼者!」
 凛と響いたその声に、じっくり目をやれば、男たちの中心に、一人の女性が立っているのが見えた。
 しかしその女性。どっからどうみても妙な格好をしている。地面までつくかという黒い長髪を、一部だけ輪のようにして上部で結わき、ドレスのように裾の広がった着物を纏っていた。
「まぁ、まぁ、そう言わずー。俺たちと遊ぼうよ」
「というか、無礼者とかウケるー!」
「それってアニメかなんかのコスプレ?」
 バカにするように、調子よく、男たちは女性をのぞき込んでいった。女性は、威勢は張っているようだが、その肩は震え、おびえているようだ。
「おい、なに見てんだよ」
 ギロリと向いたその顔に、思わず視線をそらす。女性には悪いが、こういう手合いとは関わらないに限る。きびすを変えそうとした瞬間だった。
「太郎様…?」
 女性はそう呟くと、男の一人を突き飛ばし、両手を広げて飛び込んできた。そのまま二人で砂浜に倒れるが、彼女はそんなこと気にもとめず、爪が食い込むほどこちらの頬をつかんで、目を輝かせていた。
「あっ、あの…」
「やっぱり、やっぱり太郎様です!ずっと、ずっとお会いしとうございました…。でもどうしたことでしょう。なんだか幼くなったような…髪も服もなんだか奇抜になられて…」
 生まれて初めて女性に抱きつかれ、心臓は鼓動を速めていたが、その速度をあげていた要因は他にもあった。
 男たちの視線が、嫉妬か、驚嘆か、そらしてもそらしても、ジンジンとこちらに降り注いだ。
「おい」
 男の一人が口を開いたと同時に、女性の手を取り、その場から逃げ出した。男たちが追っていくるかとひやひやしたが、案外、後方からは舌打ちが一回響いただけだった。
どのくらい走っただろうか、すっかり息切れをして、砂に膝をついた。女性の方に向き直れば、彼女は整ったままの呼吸で、握られた手を見つめたまま微笑んでいる。
「あっ、すいません」
 離そうと広げた手を、女性は掴んだまま離さない。不思議に思いつつ、そっと手を引けば、その手もゆっくりついてきた。
「あの…」
「太郎様」
「あの…」
「太郎様!」
「僕、太郎とかいう人じゃありません!」
 その手を振り払うと、女性は驚いた顔をして、打たれたわけでもない手をさすっていた。
「そんなわけないです。身なりがずいぶん変わりましたが、確かに貴方は太郎様ですわ。浦島太郎様ですよ」

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