小説

『甘やかな病』柿沼雅美(『少女病』田山花袋)

 毎日毎日見つめていた彼女が急に目の前に現れたことに戸惑ったのか、男は、え、え、え、と何かを言おうとして何も言えない、という顔をした。
 彼女は、それ、と男の持っているバレッタを指さした。男は、すぐに、あ、あぁこれ、これは、と返事をした。彼女は、わたしのです、ありがとうございます、と男からバレッタを受け取り、小さく礼をして階段へ歩き出した。男の手からバレッタを取るときに男の手のひらに必要以上に触れていたように見えた。彼女が背を向ける頃、人ごみはすでに去り、次の電車から人が吐き出されるまでの束の間の静けさを漂わせていた。
 男はただ彼女の背中を見つめている。階段にさしかかった時、彼女はゆっくり振り返り、まだ動かずにいる男に腰のあたりの高さで手をふった。男は、あ、と言って、右手を少し上げるので精一杯のようだ。男から目を離したあとで、彼女は笑いをこらえきれないような顔ですみれを見て、今見たくせにすみれの存在には気が付かなかったような速さで階段を上っていった。
 ゆっくりと彼女の残像に引き寄せられるように、男は階段へ歩き出した。今日まで見てきたホームでの男の足取りはずっしりと重く、何か石でも背負っているのではないかと思うほどだったが、今は、ふわふわとした足取りで、顔からは力が抜け、思い出し笑いをしているようなだらしない顔をしていた。
 今度はすみれが、男に引き寄せられるように一定の距離を置いて階段を上った。いつも通り、ここで乗り換える男と改札を出る別れの時間だった。
 改札でピッという音を聞き、ふと、疑念が浮かんだ。彼女は髪を結んでいなかった。カバンの持ち手にもバレッタを噛ませているのを見たことがなかった。バレッタはほんとうに彼女が落としたものなのだろうか。だいたい、男はずっと彼女を目で追っていたのだから彼女がそれを落としたのなら拾い上げ、すぐにでも追って声をかけるのではないだろうか。
彼女はあらかじめバレッタを鞄に忍ばせておいて、男の足元へわざと落とした。男は、彼女の髪にも鞄にもついていなかったはずのものがポトリと落ちて、拾ってはみたもののこれは彼女のものなのだろうか、ほんとにそうなのだろうか、だとしたらこれはどうしよう、持ち帰ってよいものだろうか、と考える。その間に、彼女が戻ってきて、男に声をかける。
この想像が当たっているとしたら、彼女はなんのためにそんなことを? 男の視線を遊ばせてはいてもとても好意を持っているようには感じられなかった。一体なんのために? 考えてみてもさっきの出来事への仮定でしかなく、それにどう答えを持ってきても事実ではないから、すみれはもんもんとした気持ちで駅前の交差点を渡るしかなかった。

 山手線、朝の七時二十分の電車に乗り、いつも通り満員のなかにいる。男は少しそわそわしたそぶりで、スーツのポケットに手を入れたり前髪を気にしたりしている。
 いつもと違うのは、これから乗ってくるセーラー服の彼女とその男に少なからず面識ができている、ということだ。
 バレッタの出来事から今朝まで、男は何度も彼女のことを思い出したのだろうか。そう思うと貧血のような気が遠くなる感覚がした。

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