小説

『甘やかな病』柿沼雅美(『少女病』田山花袋)

 電車が代々木に着き、ドアが開くと、うっすらと甘やかな香りがして、すみれはそっと彼女を見た。
 色白でやせ形ではない、セーラー服を着た彼女だった。すぐに男に目をやると、やはり今日もじっと彼女を見はじめた。彼女の先にあるすみれの視線にも気づかないほど、男は彼女に夢中だった。
 人と人の隙間から腕を伸ばし、すでにつり革にぶらさがる他人の手を避けながら、彼女もつり革の一部をつまんでいる。右肩にかけた鞄が後ろに持っていかれそうになるのを、キュッと二の腕で挟むようにして耐えている。
 男が何度か背伸びをした。その目は、彼女の表情を捉え、首筋を捉え、胸元で止まった。男は、彼女が満員電車で苦しそうにしているのではないだろうか、他の乗客に足を踏まれていないだろうか、誰かに背中や尻を触られたりしていないだろうか、セーラー服のスカーフの垂れる胸を誰かに触れさせてはいないだろうか、という心配が顔から透けていた。
 大きな駅までなかなか人は降りないのに、停まれば停まる分、人が乗り込んでくる。男は満員のなかでも彼女を時折背伸びをして見守り、彼女は何も知らずにイヤホンをしたりスマートフォンを覗いたりしていた。
 電車がホームに近づくために曲がり、体勢を崩しかけた瞬間、すみれの視線は男から外れ、彼女と目が合った。
 彼女はすみれを見て何か含ませた笑みをこぼし、はて、と首を傾げたくなるすみれをじっと見たあとで男に視線をやった。男は彼女と目が合い、恥ずかしそうにすぐに足元を見た。すぐに彼女は視線をすみれに戻し、口元だけで笑った。
 知っているのだ、とすみれは思った。
 すみれが男に好意を持っていることも、その男がすみれではなく自分を毎日見つめていることも気が付いているのだ。気が付いていないふりをして、男の視線を遊ばせて、それを見るすみれを観察して楽しんでいたのだ。
 もう電車は曲がり切って落ち着いたにも関わらず、彼女はよろめくように手をつり革に伸ばし、首を小さく振って髪を後ろにやった。男に見られているのを知りながら、微笑みの表情を作り、唇に何かついたかのように人差し指で下唇を撫でた。
 ホームに停まった電車がドアを開けると、中から大勢の人があふれ、流れができた。すみれも男も彼女も、例外なくその流れに巻き込まれながらホームへ降りた。
 すみれは男が気になり、人の流れの妨げにならないところで立ち止まってふりかえると、男がしゃがんで何かを拾っているのが見えた。男の手には、ネイビーとベージュのバイカラ―のリボンのついたバレッタがあった。立ち上がろうとした男を邪魔くさそうに人々が避けて階段へ向かい、彼のいる場所だけぽつんと穴が開いたように見えた。
 もうそのバレッタの持ち主は改札にいる頃だろうと思った時、セーラー服の彼女がすみれの前を通り過ぎて男のもとへ向かった。すみれが、え? と思ったのと同じくして、彼女がすみれのほうをちらっと見た。その顔はやはり口元に笑みを浮かべていた。彼女はすぐに男に向き直り、黒髪がふぁさっと扇のように広がった。

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