小説

『ガラスの靴を、シンデレラに』山本康仁(『シンデレラ』)

 商店街から脇道に入る。右に折れ、左に曲がり、あみだくじのようにアキエを探す。幾つ目かの交差点を過ぎたところだった。道路脇の水たまりに仰向けになって、靴が片方落ちている。水が染みこみ色濃くなっているが、街灯に照らされるそれは紛れもなくアキエのベージュのフラットだった。
 病院からチカ子の携帯に電話があったのは、それからすぐのことだった。
 アキエはベッドで眠っていた。倒れているのを通行人が見かけ救急車を呼んでくれたらしい。つまづいて転んだのだろうと、かすり傷の場所を指しながら看護師がチカ子に説明した。
「靴を履いてなくて、両方とも」
 チカ子が手にした片方だけの靴を見て、そう最後に付け足すと、看護師はお辞儀をして病室を出ていった。
 アキエはとりあえずその日、病院に泊まることになった。会社から駆けつけたサトルと一緒にタクシーで家へ戻る。サトルは落ち着いていた。怒っている様子もなく、大変だっただろうと出前の電話を入れると、お茶を淹れてチカ子の前に置いた。
「これまでご苦労様。チカ子は十分やったよ」
 サトルは優しくそう言った。それからテーブルに介護施設のパンフレットを置いた。
「俺の同級生も働いてるところだから心配ない。ここからも近いし、今空いてる部屋があるんだって」
「でもお義母さんが勝手に出ないようにすればまだここで一緒に」
 言いながらチカ子は自分の声が震えているのに気がついた。
「これからだって何があるか分からない。何かあってからじゃ遅いんだ」
「でも」
 涙が出た。アキエからのどんな辛い言葉や報われない発言にも絶対に流れなかったのに、チカ子の目からはぽろぽろと涙が溢れた。
「とりあえず来週から、母さんには体験入居で入ってもらう」
 サトルの口調に議論の余地はなかった。雨に濡れ、疲れ切ったチカ子にも、正直これ以上議論する気力は残っていなかった。

 原因は分からない。ただ退院したアキエはこれまでとは違っていた。サトルが言うことに「はい」と静かに返事をする以外、特に何も話さなかった。食事やお風呂のとき以外部屋から出てくることもなかった。チカ子が散歩に誘っても、部屋の窓からぼぉっと外を眺めているだけだった。「通帳を隠しただろう」とチカ子を責めることもなかった。それにもう、チカ子のことをチカ子だと分からなくなっていた。
 片方だけ残った靴がそのまま誰にも履かれずに、下駄箱の中に置かれていた。
 電話が鳴ったのは、アキエの施設への入居が本格的に決まったころだった。終わりかけの本を閉じてチカ子が出ると、電話口の男性は注文の品が出来たと言う。確かめると依頼主はアキエだった。
 場所を聞いてチカ子はそのお店に向かう。いつもの商店街を抜けてそのお店の前に来たとき、チカ子はどきっとした。そこはチカ子がアキエの靴を見つけた交差点のすぐそばだった。あの日アキエはきっと、このお店に来ていたのだ。

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