小説

『ガラスの靴を、シンデレラに』山本康仁(『シンデレラ』)

「少し大きくないですか」
 チカ子の肩に手を置いて、アキエがもう片方の靴にも足を入れる。
「これくらいがちょうどいいのよ。少しゆったりしてるほうが」
 足に色んなポーズをさせながら、アキエは満足そうに眺めている。それから「出かけるなら上着を持ってくる」と言って一度部屋に戻ると、どこに隠していたのか随分と小奇麗な格好をして現れた。
「さ、出かけましょう」
 何の躊躇いもなくチカ子のフラットを履くと、アキエは待ちきれないようにマンションのドアを開ける。チカ子は仕方なく、捨てようと思っていた昔の靴を履いた。エコバッグを持って玄関の鍵を閉める。
「チカ子さん・・・」
 先に歩き出したアキエが、ふと立ち止まって振り返る。
「あなたの靴、そろそろ新しいのにしたほうがいいんじゃない?」
 チカ子は「そうですね」と苦笑いするしかなかった。

 良かったことはそれ以降、アキエの散歩が習慣になったことだ。お昼を食べ、軽く昼寝をした後に散歩。戻ってきてお茶を飲み、それから二人で夕飯を食べる。夕飯後しばらくすると、アキエは部屋に戻って眠るようになった。通帳がなくなることはほとんど起こらなくなった。散歩の後にお風呂にも入るようになった。その隙にチカ子はアキエの脱いだ服を洗濯機に入れ、新しいものを用意しておく。アキエは気づいていないようだった。
 悪かったことは、あのフラットが完売していたことだ。色違い、サイズ違いはあるのに、チカ子の欲しかったものだけが入荷待ちになっている。ぱか、ぱか、と歩きにくそうな音を立てながらも、スキップするように散歩するアキエの足元を見ると、チカ子はしかし「まあいいか」と笑顔になるのだった。
 お昼過ぎから雨が降り始めた日のことだった。天気が悪いと散歩へは行かない。そうなるとチカ子はキッチンで本を読み、アキエは自分の部屋にいる。以前のように通帳がないと言って出てくるのは決まってこういうときだった。
 ばたっと大きな音がして、チカ子は目を覚ました。本を読みながらうとうとしていたのだろう。栞のように親指が本の間に挟まれている。チカ子はドアへ目をやった。これから展開されるであろう会話を考えると気分が沈む。チカ子は立ち上がると空になっていたコップにコーヒーを淹れ、ついでにアキエの分も用意してテーブルに置いた。立ち昇る湯気が、静かな部屋に大きく揺れる。
 しばらく待ってもキッチンのドアは開かなかった。それどころか廊下を叩くぱた、ぱた、というスリッパの音も聞こえない。アキエは部屋にいるのだろうか。あのドアの音はアキエが部屋に戻ったときの音だったのだろうか。
「お義母さん?」
 しんとする廊下にチカ子の声が響く。部屋のドアをノックしても返事はない。中で誰かが動いているような音もしない。恐る恐るドアを開け、部屋の中を覗き込む。レースのカーテンが影絵でも始まるかのように白く光っている。
 トイレかな・・・。
 チカ子がトイレのドアをノックしようとしたときだった。玄関にアキエのスリッパが並んでいるのが目に入る。下駄箱を開けるとベージュのフラットがない。「しまった」そう思うより先にチカ子は動いていた。
携帯をつかみマンションを駆け出す。いつもの散歩コースを走っていく。色とりどりの傘で賑わう商店街を抜けて、いつもなら子どもたちの声が飛び交う公園を見渡す。アキエはどこにもいない。もう一度商店街を戻りながら、今度はこれまでに立ち寄ったことのあるお店の中を見て回る。チカ子は傘を差していなかった。「すいません」と言いながら通りぬける濡れた女性に、周囲が奇異の眼差しを向ける。

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