小説

『ガラスの靴を、シンデレラに』山本康仁(『シンデレラ』)

「洋服だってこんな汚れたものしか」
「お義母さんが自分で洗うって」
 チカ子はようやく反論した。
「洗濯は私の仕事だって言うの?」
 アキエの声に力が入り、唇と共に震え出す。
「そんなことひと言も」
「洗濯も掃除も食器洗いも。辛い仕事は全部私の仕事じゃないの!」
 チカ子は愕然とした。アキエはときどき「お世話になってるから」と掃除や食器の片づけを手伝ってくれていた。もちろんそれらの全てを任せていたわけじゃない。怪我をしては大変だからと、かつてミキやノボルにお願いしていたようなことを頼むくらいだ。それをまさか、「やらされている」と思っているとは考えてもみなかった。
「だったら別に」
「あの家もあなたが売ったんでしょう」
「だから売ってません」
「売ったお金はどうしたのよ」
「売ってませんってば!」
 随分と出していなかった自分の大声に、チカ子の心臓がびくびく脈打った。
「じゃあどうして私は家に帰れないのよ」
「だからそれは」
「こんな狭いところで。私にはお茶だって淹れてもらえない」
 ネットや本、先週から通い始めた医者の説明である程度想像していたとはいえ、実際に起こるとどうして良いかチカ子は分からなかった。今にも泣き出しそうな目をしながら、アキエはじっとテーブルの上を見つめている。アキエの通帳がなくなり始めたのはこの日からだった。どこに置いても、どんなに置き場所を替えないようにお願いしても、この日からアキエの通帳はなくなった。
 あの日も結局、枕の中に通帳は見つからなかった。

 散歩。医者が薦めたのはそれだった。気分転換になり健康にも良い。何より夜しっかり休むようになり、昼夜逆転や夜中の徘徊を防いでくれる。今月分の薬をチカ子に渡しながら医者は説明した。
「散歩に行きませんか」
 チカ子の予想していた通り、アキエは最初断った。疲れるからいい、家でゆっくりしているほうが性に合う。アキエはそう言って柔らかい笑顔を浮かべている。普段のアキエは上品だった。この同じ人が「通帳がない、あなたが盗ったんだろう」と声を荒げるのは、それを実際に見ていてもチカ子には想像できなかった。想像できないだけに、そのギャップを毎日経験するのが辛かった。苦しかった。
「散歩に行きませんか」
「そうね。行ってみようかしら」
 意外な返事が返ってきたのは、夕飯の買い出しに行こうとしていたチカ子を、珍しくアキエが玄関まで見送りにきたときだった。
「良さそうな靴ね」
 チカ子が下駄箱から取り出した靴をアキエが覗き込む。ネットで買ったベージュのフラットシューズ。一昨日届いたばかり。履くのは今日が初めてだった。
「それなら歩きやすそうだわ」
 チカ子はアキエの足元に靴を並べる。アキエはその片方に足を入れる。踵に空いた隙間からは、アキエには大きすぎる気がした。

1 2 3 4 5 6 7 8