小説

『芋虫から生まれた少女』志田健治(『桃太郎』)

 トイレと手洗い場は想像以上に清潔だった。こんな山奥でも水洗が完備されているとは、その手の業者には心から敬服する。侑が琉音たちの年の頃には、キャンプ場のトイレと言えば間違いなくお化けが住んでいた。
 侑は用を足して、目の覚めるように冷たい湧き水で歯を磨く。さすがに顔はやめておこう。神聖な儀式は朝の楽しみにとっておく。
 テントの中にはランタンが一つ。重い光が眠気を誘うミストのようにテントの中に沈殿する。武井はもう寝息を立てていて、菅原は寝袋の中で「寒い、寒い」と言っている。確かに寒い。侑は持って来たありったけの服を重ね着して寝袋に入り込む。
「まじさむくないっすか?」菅原が言う。
「寒いね。これはやばいね」侑は答える。
 顔が凍てつく。思っていたよりも底冷えがするのだろう。侑は頭まですっぽりと入って体を丸める。ゆっくりとだが、凍りついた血管が溶け始める。菅原は依然として「さむい」を繰り返したが、その感覚は次第に伸びて、やがて何も言わなくなる。
 そうだ。ランタンを消すのを忘れていた。せっかく体が温まって来たのだが、意を決して半身を出す。消したらすぐに寝袋に戻る。中は温かく、暗くなった空気が寝袋にのしかかる。吸い込まれるように眠りに落ちる。

 泣き声で目が覚めた。どこかで子どもが泣いている。武井と思われる寝袋ががさごそと動き、疲れたようなうなり声を出す。
「健ちゃん、葉流だよ。泣いてるぞ。葉流……」武井が言う。
「まじすか……」と言って菅原は寝袋から出る。「さむい、さむい」と言いながら外に出る。
 お父さんは大変だなぁ、と寝ぼけた頭で考えながら侑は再び眠りに落ちる。寝袋の中は天国だ。穴を寝床にする動物は案外幸せだな、と思う。

「ねえ、ねえ」と誰かが脇腹を突く。
 まだ真っ暗だ。水笛のような武井のいびきが後ろで聞こえる。
「ねえ、起きてよ」
 琉音の声だ。侑は寝袋から出る。真っ暗で何も見えないが、確かに琉音の気配がすぐ近くにある。
「どうしたの?」と聞く。
「トイレ」と琉音は答える。
 一瞬迷ったが、すぐにその迷いを恥ずべきものとして抹消する。真夜中のキャンプ場で子どもがトイレに行きたいのなら、何よりも優先しなければいけない。それは人類共通の使命だ。それにしてもあんなに清潔で明るいトイレでも子どもは怖いものなのだな、と侑は少し優しい気持ちになる。
「葉流が夜泣きして、目が覚めたの」
 歩きながら琉音は言う。外は寒い。体を包む暖気がぼろぼろと剥がれ落ちる。琉音に急かされたので寝袋のジッパーを開いたまま出て来てしまった。また一からやり直しか、侑は悔やむ。
「トイレ我慢してたんだけど、やっぱり無理。お父さんに頼んだけど、葉流と一緒に寝ちゃった」

1 2 3 4 5 6 7 8