爺さんへの殺意がわいてくるものの、それは一瞬だけのこと。
三十メートルほど先で、誰かが地面に倒れているのを発見する――あの爺さんだ。
落書きの最中にしては、様子がおかしかった。地面に張りついたまま、ぴくりとも動かない。画材が派手にぶっ散らかっている。
まさか――
爺さんへの殺意を一瞬でも抱いたことを後悔しつつ、私は急いで近寄った。
まずは様子を確認する。ほんのちょっとだけ、鼻の穴が揺れていた。
息はある。
が、意識はないらしい。ただ寝ているにしては、顔色が悪すぎるし、汗の量も多すぎる。危険な状態に間違いないだろう。
私は救急車を要請すると、救急隊員が駆けつけるまでの間、爺さんに全力で呼びかけ続けた。
◆◇
聞くんじゃなかった。
私は病院の廊下、備え付けの椅子で一人途方に暮れていた。
病院に駆けつけたオカモトさんから、さっき説明があった。
画伯は大病を患っていて、もって三ヵ月弱。桜が咲く頃には、もうこの世にいないだろう。
そして、そのことは爺さん自身も知っている。半年前から入院していたが、たびたび病院を抜け出しては、例の落書き行為を続けていたらしい。
だから、枯れ木の絵ばかりなのか。自分が再び見ることのできない花々。それを描く気になれないのも無理はない。
オカモトさんが一冊の目録を見せてくれた。載っている絵にはどれも、私が憎たらしく思っている、あのサインが走り書きされている。
以前の爺さんは、こんな作品を描いていたのか。題材は動物や植物。絵の細部からは、生命の力強さ、奥深さが伝わってくる。それぞれの題材の最高の一瞬を、生きたまま紙の上に定着させていた。
爺さんの絵が大きく様変わりしたのは、三年前のこと。
長年連れ添った愛妻が死んだ。
さらに、突然の火事で自宅も失う。放火犯による仕業で、未だ犯人は捕まっていないらしい。
それ以降、爺さんが描くのは、死や災害を連想させる暗い絵ばかり。絵を売ったお金で自宅を再建したものの、人や世界を呪うような絵は止まらなかった。
ところが、爺さんが白い子犬を飼い始めてからは、絵に少しずつ明るさが戻ってきていたという。
子犬は「シロ」という名前で、爺さんが通院する時には必ず付き添い、診察が終わるまでは病院の外で静かに待っていた。そんな賢い面がある一方、家にいる時には、臼の中で寝るのを好んだり、地面を前足で小突きながら吼えたりするお茶目な面もあったそうだ。
爺さんはシロをとてもかわいがっていた。
が、そんな生活も長くは続かない。
ある日、シロは交通事故で死んだ。事故を起こした車は酔っ払い運転だった。
ほぼ同時期、爺さんも医者から余命宣告を受けてしまう。
それからだ。爺さんが路上への落書きを開始したのは。
私はオカモトさんから受け取った一枚の紙に目を落とす。