小説

『枯れ木の花』℃(『花咲かじいさん』)

 二人一緒に公園で花見をした時に、
「もっと長く、桜の花が咲けばいいのにね」
 そう妻が言ったと、楽しそうに語る爺さん。
 相づちを打ちながら、私は心が痛む。
 その思い出はもう過去のもの。妻は亡くなり、爺さんも桜の季節までは生きられない。
 もしかしたら、と考える。あの落書きが枯れ木である意味。枯れ木でなければならない意味。
 あれは一種の悪意かもしれない。花見の席に、花の咲かない枯れ木の落書きを配置することで、楽しい雰囲気に水を差すのが目的じゃないのか。今思えば、地図で塗りつぶされた場所はどれも桜の木のすぐ近く。花見で賑わう場所ばかりだ。爺さんは今笑っているけど、やはり人や世界を憎んでいるのか。
 たとえそうだとしても、私の覚悟は変わらなかった。最後の場所は模倣犯たちから守り抜く。爺さんには枯れ木の落書きを全て完成させて欲しい。
 自分で現地に行けないならと、私は次のお見舞いで、スケッチブックを差し入れしてみた。
 もし爺さんが枯れ木を描いたら、その絵を現地で丸写ししよう。私の画力では無理でも、オカモトさんなら何とかしてくれるかもしれない。
 私は密かに、そんなことを考えていた。

     ◆◇

 三月の終わり、爺さんは別の世界へと旅立った。医者の予想よりも少し長く生きた爺さんは、病院の窓から咲きかけの桜をほんのちょっとだけ見ることができた。
 私があげたスケッチブックに絵が描かれることはなく、ほとんど白紙の状態。ただ最後のページにだけ、「ありがとう」という走り書きがあった。
 この三ヵ月間、私は約束を果たし、あの場所を守り抜いた。模倣犯たちに落書きされても、すぐに消し続けた。
 でも、あの場所に爺さんの落書きはない。たった一ヵ所だけ、爺さんの思いは届かなかった。
 間もなくして、私は担当地域が変わり、公園から別の場所へと移ることになった。それ以来、一度も公園を訪れていない。四月になり公園の桜が見頃と聞いても、私の足が公園に向くことはなかった。
 花見シーズンが終盤に差しかかった頃、「枯れ木の絵は多すぎるから消そう」と市議会で決まった。
 そんな時だ。オカモトさんが電話をくれた。
「明日の朝早く、花見をしませんか」
 その誘いに、私は「行きます」と答えた。
 でも、残念ながら今夜は大雨に強風。明日行っても、桜の花は残っていない気がした。

     ◆◇

 早朝、雨はもう上がっていた。
 待ち合わせ場所の裏門の前には、すでにオカモトさんの姿があった。
 そこで初めて、今日誘った本当の目的を教えてくれる。
 爺さんは前借りしていたのとは別に、もう一つ遺言をしていたそうだ。
 自分の遺灰の一部を、あの場所にまいて欲しい。
 公園の中央。爺さんが落書きしようとしていた最後の場所。爺さんは魂だけの存在になってもなお、あの場所を目指している。
 私は久しぶりに公園を歩いた。昨夜の大雨と強風のせいで、桜の花は完全に散っている。花見にはならないが、構わない。今日は爺さんの遺言を叶えるために来た。それでいいじゃないか。

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