小説

『映る花』九条夏実(『ギリシア神話-ナルキッソス』)

 大きく息を吐き出して、瑞希は両方のこめかみを揉んだ。
「あんたみたいな顔だったら、私だって自分を好きになったかもよ」
「どうかな。瑞希は現実的だからなあ。俺みたいな馬鹿とは違うよ」
 フェイスブックに写真を上げた。瑞希からのメールで俺は恋に落ちた。
 自分相手の。
 錯覚だ。スマホの小さな画面が悪い。大きな画面で見れば、いつもの通りの自分の顔にがっかりするだけ。俺は慌ててタブレット端末を立ち上げて、瑞希のフェイスブックを開いた。
 勘違いでもなんでもない。俺は、俺の横顔に絶望的な恋をした。
「もっと早く相談してくれてもよかったのに」
「言いにくくてさ」
 夜も眠れないくらい好きな人ができた。その人の名前は谷田多岐穂。瑞希にだってそう簡単に話せない。
「軽蔑されたくなかったんだよ」
「どんどん顔色悪くなるし、痩せるし。どうしたんだって聞いても何でもないって誤魔化すし。薄情だよ」
「瑞希、すごい怒ったよな。何でもないわけない、白状しろって」
 高校の制服のまま俺の部屋に乗り込んできた瑞希の、犯人の自白を引き出す鬼刑事みたいな勢いに負けて、俺は全部打ち明けた。
「嘘、下手なくせに。今まで一度だって私を騙せたことないくせに」
「一回くらいなかったっけ?」
 しばらく画面を占領していた画像を閉じて、瑞希は別の一枚を開いた。
 一月前くらいに俺が自分で撮った自分の写真。
 続けて見るとはっきりわかる。恋に落ちる前と後。顔が全然違う。
「色気出たよね、痩せて」
「そうかな」
「多岐穂はさ、男前だけど能天気さが前面に出てて緊張感が少しもなかったんだよ。だけど、この頃は急に大人っぽくなった。家の母親まで多岐ちゃん最近いい男になったって言ってた」
 瑞希の両親はざっくばらんで口が悪くて、すごく優しい。
「恋でもしたんじゃない、って。見抜かれてたよ」
「おばさん、鋭い」
「とぼけておいたよ。誰にも言わないって約束したから。私にしか教えられないとかあんたが言うから」
「律儀だな、瑞希は。本当、律儀」
「私だけなんだよね。あんたが死んだ理由知ってるの」
「うん」
 昔から瑞希には霊感のかけらもなかった。でも、親しい人間の姿なら、俺の姿なら見えるかもしれない。死んで、何だかよくわからないまま幽霊になってうろついていた俺は少し期待だけしていた。
 だけど、現実はそう都合よくいかない。ベッドを離れて机の真横に移動しても、瑞希の目に死んだ俺の姿は写らない。
「ひどいよ、重いよ」
「ごめん」
 死んだ俺の声は瑞希には聞こえない。
「子供の頃から言われてたよね。あの湖は危ないって。特に冬は危ないって」
 嫌という程知っている。あの湖は深くて、夏でも水は冷たい。
 あの日、夕暮れの中、光の加減で水の表面が鏡のようになっていた。俺は湖に写る自分の顔に誘われるように水の中に落ちて行った。
「おばさんは事故だと思ってる。おじさんも事故だと思ってる。そうじゃないって知ってるの私だけだよね?」
「ごめん」
「昔から、多岐穂はそう。何にも考えないで動いて後は人に投げっぱなし。潔いとか言えば聞こえがいいけど、ただ衝動的なだけだから」
「散々叱られたよな、瑞希には。もう少し物事をよく考えろって」
「今度もそうだよ。人にこんなもの押し付けて、データ全部消してくれって頼むとか。無責任だよ、馬鹿」

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