小説

『オオカミの白い手』こゆうた(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 ホースを引っ張って庭の奥へと進んでいく。バラの棘に触っても造花なのだからもちろん痛くも何ともないが、長くて重いホース片手に広い庭を進むのは案外骨が折れた。都さんはあの歳で、それも病気だというのに毎日こんなことを続けていたのだ。
 都さんは今、入院している。これでもう何度目か判らない、と薫さんは云った。肝臓を長く患っていて入退院のくり返しなのだそうだ。体調の悪い時はあんな風に腹水が溜まり、昏睡状態で救急車で運ばれることもあるという。それももう慣れたことだと薫さんはわたしに語った。
 化粧室で都さんの様子がおかしくなったことを話すと、薫さんは「ああ」と事もなげに云った。
「美和さんにうつるといけないとでも思ったんでしょうよ」
「感染するってことですか」
「ええ。姉の肝臓の病は血液を介してうつるものだから」
 わたしは薫さんの言葉に頷いた。だから都さんはあんな風に触られることをきっぱりと拒絶したのだ。
 ホースから勢いよく噴出する水飛沫をぼんやり眺めながら、わたしは思い出していた。都さんの指先から溢れでた血の玉の丸さと赤さを。それは誰の傷口からも同じように流れでる血液と変わらないように見えて、けれども都さんの身体を蝕む何かが溶け込んでいるのだ。
 そしてそれを都さんは隠し持っている。白塗りの鎧でもって。肝臓の悪い人らしい青黒い顔色と一緒に。救急車の車内の寒々しい照明に露わにされた都さんの素顔をわたしは脳裏によみがえらせた。
造花のバラに水をやるなんてほんと莫迦げてる、薫さんの云う通り酔狂もいいとこだ。わたしはただ怒りに任せるような気持ちでどんどん水をまき散らしていく。
 屋敷の玄関から出てきた薫さんが呆れ顔でわたしを一瞥してからぼそっと呟いた。
「ほんとうに、放っておけばいいのに」
 云い終えて、いそいそと門を出ていく。その右手には大きく膨らんだ鞄が提げられている。都さんの着替えや何か、白く武装するための道具がたくさん詰まっているに違いない。
水浸しになった庭を前に、都さんと瓜ふたつの背中をわたしは黙って見送った。
 脱力したホースを握ったまま庭を見渡すと、うっすらと砂埃をかぶっていたバラたちはくすみを洗い流され本来の白さを取り戻し、ビニール製の花弁や葉がはじく水滴が陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
 都さんの庭は息を吹き返した。
 わたしはその眼前で、満足するよりも何か大事なものを忘れているような気がしてその場に立ち尽くした。
「ああ、そうか」
 化粧室での濃密なバラの香り。ここには何の匂いもなかった。枯れることもない代わりに、咲き誇る花々が放つ猛々しい生の匂いもない。
 枯れることのない白いバラたちはきれいで、きれいだけれども少し、悲しかった。

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