小説

『オオカミの白い手』こゆうた(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 若い店員は「少々お待ち下さい」と固い表情で云い残すと、足早に奥のキッチンへと消えていった。どうしようとやきもきしていると、商売用の笑顔を取り戻した彼がすぐに戻ってきてこう云った。
「ナポリタンですね。かしこまりました」
「ありがとう」
 わたしは感謝の意を込めて店員に伝えた。きっと料理人に特別につくってくれるようかけ合ってくれたのだ。そんなことを知らない都さんは鷹揚に頷いただけだった。
 せっかくつくってくれたナポリタンを都さんは半分以上残した。そのうえわたしの食べているパスタが気になるらしく、途中で変えっこしないかと云い出す始末だ。
「よかったら、どうぞ」
「美和ちゃん、悪いわね」
 ちっとも悪いなんて思ってない口調であっという間に平らげる。わたしはもう食べられなかった。レジのところで残したナポリタンのことを含めて店員に謝ると、彼は「いいえ、お気になさらないでください」と笑ってくれた。それからわたしの横で機嫌よく歌をうたっている都さんにも笑顔を向けた。
「すてきな歌声ですね」
「あら、そう? ありがとう。きっとここのオイルがいいのね。何だかのどの調子がよくなったみたい」
 確かにいつもの酒焼けしたようながらがら声じゃなく、なめらかで心地よいハスキーボイスに聞こえた。都さんの声は歌で聞くと、不思議と独特の哀愁と色っぽささえ感じるのだった。

 すっかり気をよくした都さんが店の前で大声で歌うのを慌てて引っ張って、わたしは彼女を化粧室に連れていった。都さんの胸元にはトマトソースが点々と散っていた。食べるのとしゃべるのを同時にしようとするからこんなことになるのだと、わたしは鏡の中の都さんに小言を云った。
「困ったわ、どうしよう」
 目立ちすぎるソースのしみを見て、子どものようにしょげている。
「そうですねえ」
 わたしは顎に指をあてながら、都さんの恰好をざっと見た。白いレース地のドレスにお洒落のつもりかフリンジのついた大判ストールを腰に斜めに巻きつけている。
「これ、使いましょう」
 すばやくわたしは腰に手をまわした。都さんはおとなしくされるがままになっている。前屈みになって白いストールの結び目をほどくわたしの鼻先に樟脳の匂いが漂ってきた。近くで見るドレスはまっしろではなく全体的に黄ばんでいて、わたしは祖母の家に長年かけられっ放しのレースのカーテンを思い出した。
 外した腰巻用のストールを今度は襟巻に見立ててぐるぐると首に巻く。胸元のしみが隠れるようにゆるく垂れ下がる感じで調整すると、われながら上々の仕上がりになった。
「これならばれないわ。美和ちゃん、すごい」
 素直にほめられると照れ臭い。わたしはおどけたように肩をすくめてみせた。

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