小説

『カウンツ』こがめみく(『番町皿屋敷』)

 さっきまで私を目で追っていたキクさんは、いつの間にか正面を向いて、一点を見つめ続けていた。
 キクさんの背中が震えている。
 私は、いつか見た父の背中を思った。
 ふと、キクさんの震える背中に触れたくなった。幼かったあの頃に比べれば、そのことは幾分か容易になったような気がした。それは、私の身体が成長して四肢の可動域が広がったからかもしれないし、何かもっと別の理由のためかもしれなかった。

 キクさんの背中に、添えるようにしてそっと手を触れる。
 キクさんの横顔が目に入った。
 彼の頬を、一筋の涙が濡らしている。
 こんな涙を、ずっと昔、レコードを好きになった日にも見たことがあるような、ただの気のせいのような、そんな感覚がした。

「キクさん」
 絶え間なく続く空気の振動のなかで、私はキクさんに訪ねた。
「キクさんって、欠番のこと、本当に知らなかったんですか」
 若干の沈黙のあと、キクさんが答えた。
「……わからない」

 大昔、井戸の底で九枚しかない皿を数え続けた幽霊は、彼女の魂を鎮めにやってきた高僧の「十枚」という言葉を聞くと、消えてしまった。
 でも、キクさんは幽霊ではない。生霊でもない。人間だ。
 実体のない数字の羅列のせいで、消えてしまったりはしないだろう。たとえ完全ではなくとも、彼の手元に確かに存在する皿の輝きを何度も見つめ返しながら、この世界で生きてゆくのだろう。
 それがキクさんにとって幸せなことなのかどうか、すぐにはわかりそうになかった。
 これから長きに渡って彼にふりかかるだろうその問いに、出来れば彼の隣で向き合い続けることが、私に許されるだろうか。

 私はキクさんの傍らに立ち、音楽に耳を傾ける。
 今一度、力強い空気の振動を感じる。
 私は、いつか父の言っていた、聞くことはできないけれども確かにそこにある音のことを考えた。

 ふと、窓の外を見る。空がぼんやりと白んでゆくのがわかった。
 じきに夜が明けるのだ。

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