小説

『カウンツ』こがめみく(『番町皿屋敷』)

 私は、言葉を発した彼の口元を注視したあと、彼の顔全体に視界を広げた。
 キクさんが、悲しい顔をしていた。
 何者かの腕が脳内に突っ込まれ、そのまま手荒く奥を掻き回されるような感覚がする。
 私は今まで、キクさんのこんな表情を見たことがなかった。 いや、見ようとしなかっただけなのかもしれない。
 六年もの時間を、同じ屋根の下で暮らした人間。その人間が、悲しみを前にどうやって顔を歪めるのか、その顔に浮かぶ悲哀の影がどんな形をしているのか、私は、そんなことを今はじめて知ったのである。
 何故だろうか、ふいに父の姿がうかんだ。

 
 そのあとの自分がどうしていたのかはわからない。気がつくと、真夜中になっていた。
 今まで何度聞いたか知れない、悲痛な声が響く。
 私は、声のする方へ向かって歩き出した。
 真夜中の声に気づいたときから今に至るまで、私はその正体について頭で考えることはあっても、実際に確かめようとしたことは一度もない。それなのに、今奥の部屋へと向かう私の歩みには、一切の迷いもなかった。
 声は、何十周、何百周目かのカウントを始めている。
 ほとんど無意識に声への最短距離を選んでゆく足とは反対に、心臓は徒らに拍動を速めた。
 奥の部屋が近づく。
 声が、沈黙を生むあの番号の直前を数える。
 私はドアノブに手をかける。

 きっと、本当はずっと前からわかっていた。

 
 ドアが開く。
 そこには、キクさんがいた。生霊ではない、ただのキクさんだった。

「……誉、ちゃ」
「欠番です」
 私は、自分の声が思いの外落ち着いていることに驚いた。
 キクさんが、呆然とした表情で私を見る。
「……え?」
「その番号は欠番なんです。いくら探しても、その番号のレコードはないんです、キクさん」
 まるで何年も前から用意していたように、言葉がすらすらと出てくる。

「……けつ、ばん」
 キクさんはそう繰り返し、何度目かで目を見開いたかと思うと、自嘲するように渇いた息を吐いた。
「……欠番。そうか欠番か」
 キクさんの口元が、いつもの緩やかなカーブを描き、言葉を紡いだ。
「……それってさ、レコード好きの間では、常識?」
「……ええ、まあ」
 私の返事を聞いて、キクさんは何かを手放したようだった。

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