「これは失敬。悪かったね、素敵な髪だったからつい女の子かと思ってしまったんだ」
そこではじめてその子どもは笑顔を見せた。いじの悪い、なんだか艶っぽくさえある笑みだった。
なんとなくドギマギしながら光太郎は続けた。
「家はどの辺りなんだい、明るいところまで僕と一緒に行かないか。それとも誰か待っているならそれまで居ようか」
「わたしはあなたを待っていたんだ」
面食らう光太郎に、少年(恐らく少年なんだろう)は続けて言った。
「わたし、本を読み聞かせたいんだ」
そう言うと、さらに続けた。
「練習相手になってほしい。迷惑はかけないから」
懇願するようなまっすぐなまなざしに、光太郎は困り顔をして言った。
「うーん、練習相手になるのは構わないのだけど、もうこんな時間だし、お家の人も心配しているだろうから…そうだな…」
どうしたものかと思案している光太郎に、少年は思わぬことをつぶやいた。
「あなた、眠れないのでしょ」
ぎくりとして少年の方を振り向くと、突然つむじ風が巻き起こった。思わず目をつぶってしまう。目を開けた時、そこに居たのは黒いローブに身を包んだ少年だった。いつの間にか身長は光太郎と同じくらいになっていた。美しい髪も腰近くまで伸び、それを如何にも気持ち良さそうに風になびかせている。
「…魔法使い」
思わず言った光太郎に、魔法使いはさも嬉しげに言った。
「さすがに聡明だな。わたしが選んだだけのことはある。変身も様になっていたろう?」
何も言えずにいる光太郎に魔法使いは続けた。
「わたしは読み聞かせをしたい。あんたはそれを聞く。あんたは眠りたい。わたしはそれを叶える。いい考えだと思わないか」
にっこりといやらしく笑う魔法使いに、いつのまにかあんた呼ばわりに格下げされた光太郎は言った。
「…いいでしょう。乗りました」
「そうこなくては」
そう言うと、魔法使いはすたすたと歩き出した。どうやら光太郎の部屋を知っているようだった。光太郎は慌てて後を追う。
魔法使いは実に普通に街を歩いた。他の人と何ら変わりない様子で信号を渡り、駅前を抜けた。流れるような髪だけが夜に溶けずに光っている。そうして、マンションの階段を上り、502の前でくるりと振り返り、光太郎をじっと見た。
光太郎は急いでキーを出し、扉を開けた。邪魔するぞ、と言い魔法使いは部屋に上がる。
「意外と普通なんですね」
そう言った光太郎は、すぐにそれが失言だったと気がついた。
魔法使いはキッと振り返ると、右手を振り下ろした。途端に、見慣れた部屋は真っ暗な空間に変わり、光太郎は闇に投げ出された。魔法使いは髪を逆立てて宙に浮かんでいるが、光太郎は自分がこのまま底のないところへ墜ちていく感覚がした。
「これで満足か」
魔法使いは冷たく言い放った。顔も空間も張りつめていたが、その目が一瞬潤んだように見えて、光太郎は言った。
「御免」
すると、仕様がないとでも言うように空間は消え、馴染みあるフローリングが光太郎の足についた。
背を向けてしまった魔法使いにゆっくりと近づき、光太郎は言った。
「悪かったよ」
「なにが」
何もわかっていないくせに、とでも言いたげに魔法使いは言った。
「悲しい気持ちになっただろう」
魔法使いははっとした様子で振り向き、光太郎を見た。すこし驚いた表情でそのまま光太郎を見つめていたが、しばらくすると決まり悪そうに下を向いた。
光太郎はにっこり笑いかけてからキッチンへ向かった。そうして濃い珈琲とミルクをたっぷり入れたカフェオレを作った。
リビングに戻ると、魔法使いは光太郎のベッドの上で仰向けになり、神妙な顔つきで毛布の感触を確かめていた。光太郎がカフェオレのマグを差し出すと、ふわりと起き上がり、湯気があまり立っていないのを確かめて口をつけた。静かに一口飲み、うっとりとしている。
そうして一息に半分くらい飲んでしまうと、おもむろに言った。
「これを読んでやろう」
見ると魔法使いは膝の上に絵本を乗せて持っている。表紙には『さいしょの神さまと魔法使い』と書かれていた。
光太郎は魔法使いの顔を見て、ゆったりと微笑んだ。それを確かめてから一息ついて、魔法使いはその絵本を読みはじめた。