小説

『金の斧、銀の斧』壬蒼茫(『金の斧』)

 夜、暗がりの中を男は川までやってきた。周囲の誰にも見られていないことを何度もたしかめた。
 男の肩には自分の汚れた鉄斧が乗っていた。闇の中に身を沈めるようにしてかくれ、川べりに近づき、担げていた斧を川へ放り投げた。
 水音がして、そのまま斧は川に深く沈んだ。
男がしばらく黙って様子をうかがっていると、やがて川面の表面が丸くふくらみだし、川の中から話にきいていたヘルメスがあらわれた。ヘルメスは水面に立つようにしてその姿を見せた。
本当だったか、と男は息をのんだ。
ヘルメスはその手に、暗闇にあっても光る金の斧を抱えていた。
「お前が落としたのは、この金の斧か」
 男は一歩前に踏み出した。
「そうです。そうです。それです」
 ヘルメスは少しの間黙っていたが、やがて目をつりあげた。
「この欲張りの嘘つき者め!」
 そう言うと、そのまま川の中へ戻っていった。
 金の斧も一緒に沈んでいった。
もうこれで男が投げ込んだ鉄の斧が見つかることもないだろう。
だが、。と男は考えた。
金の斧、銀の斧はすでに手に入れたのだから・・・・・・・・・・・・
 男が帰ろうと川に背を向けると、背後で水音、そして男を呼びとめる声がした。
「お前が落としたのは、この死体か」
見るとヘルメスの手に、長い白髪をだらりとたらし、肉のほとんどが腐り落ちた、骸骨だけになった死体が抱えられていた。髪の様子とまとった服からして老婆の死体だろう。見覚えのない死体だ。
「知らない……死体など落とすものか!」
 男はギョッとしながらも答えた。
ヘルメスはいったん水に沈み、すぐにまたあらわれた。
「ではお前が落としたのは、この死体か」
今度は紫色のパンパンに膨らんだ少女の水死体だった。
「知らん! 知らん! なんだそれは!」
ヘルメスは再度、水に沈み、すぐにまたあらわれた。
「では、この死体か」
暗がりに男が目を凝らすとそれは、いましがた殺してきたばかりの友人の死体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・であった。
死体は友人の家にそのまま置いてきたはずだった。
なぜここに奴の死体があるのか。
男の口の端から思わず友人の名が小さく漏れた。
ヘルメスはにやりと笑った。
「正直者め。すべてお前にやろう・・・・・・・・・
ふいに両足首をつかまれた感覚があった。足元に目をやると、老婆と少女の死体が川べりを這いあがりながら男の足にすがりついている。
川に引き込まれる!
自分の口から聞いたこともないような悲鳴がでた。絶叫しつつ川面を見ると、ぐっしょりと濡れ、白い眼をした友人の死体が一本の柱のようにつっ立っている。
その手には男が投げ入れたはずの鉄の斧がしっかりとにぎられている。死体は声をあげて笑いながら、ゆっくりと斧をふりあげ、頭上でかまえたまま、男が川に引きずり込まれるのを待った。
男に斧で叩き割られた、頭の傷口をこちら側に見せつけるように、真っ赤に開きながら。

1 2