トオルは山を下り、この近くに一軒だけある古い旅館へと向かった。入り口で一人の老婆が出迎えてくれた。
「こんな辺鄙な所、滅多に人は来んでね。何処から来たん?」
「東京から来ました。昔、知人からこの辺りに綺麗な滝があると教えてもらったので。」
「仕事は何しとるの?」
「…少し前に辞めまして。今は旅行中なんです。」
老婆に部屋に案内されてあれこれ話していると、突然襖が開いた。
「婆ちゃん。これ、忘れてるよ〜。」
先程、滝に浮かんでいた女が宿帳を持って入ってきた。
「滝の幽霊。なんでここに…」
トオルは叫び声を上げ、この旅館は幽霊屋敷ではないかと腰を抜かした。
「この子は幽霊じゃないよ。少し前に出戻ってきたんだよ。元旦那が借金作っちまってね。元々変わった子だったけど、旦那と別れてからは気が触れたみたいにふらふら出掛けて水浸しになって帰って来るんだよ。出戻りでも嫁に欲しいと言ってくれる人もおったのに、とても手に負えんと逃げられてしまった。」
トオルは機織り姫の滝の近くで浮かんでいた女の行動に合点がいった。
「婆ちゃん!会ったばかりの知らない男にペラペラ私のこと変な風に話さないでよ!」
老婆は「後はよろしく」と孫娘に伝えて早々に部屋を出ていった。
「私が毎日気が触れたみたいに出歩くのは、大嫌いな田舎男と結婚させられないようにする為よ。こんな田舎じゃ出戻り娘なんて値踏みされて、お節介ババアにつまらない近所の男とくっつけられるのよ。変な男とくっつかない為に私は変な女を演じてるだけ!」
女はそう言うが、無人の川面に浮かんで笑う姿は奇行にしか見えない。
トオルは宿帳には以前住んでいた住所を書き、苗字は母の旧姓を書いた。