小説

『愛の天秤』尾西美菜子(『鶴の恩返し』)

鶴とは、湿地で暮らす生き物。冬の間や繁殖期には畑や人里に近づくことはあっても、山の中や人間が集まるようなところには、行くことがない。まだ年若い私は、主の話を聞いても、桜がどのようなものなのか、全く想像ができなかった。

「淡い紅色、ですか。先日旦那様が買ってきてくれた、この紅のような色ですか」

私は懐から紅入れを取り出し、ふたを開けた。小指でさっと掬い取り、ひび割れた唇に優しく引く。その瞬間に潤いをなくしていた唇が、仄かに色めいた。艶を得た唇が、控えめに存在を主張している。

「いや、もっと淡い色さ。そうだなぁ……。例えば、鍋に雪が山盛りに入っているとしよう。その中にツルの紅を引いた唇を入れて、混ぜてしまったような色、かな」
「なんと。桜とは、そんなにも薄い色なのですか」
「あぁ」

そんなことをしては、消えてしまう。そう思った私はとっさに紅を引いた唇を手で覆った。その様子がおかしかったのか、主は楽しそうに大笑いをした。それはそれは楽しそうに、笑った。

「ツル、今日はこの後忙しいかい?」
「いえ、朝餉が終われば、いつものように機を織るだけでございます」
「では、私に少し時間をくれないかい。行きたい場所があるんだ」

そう言うと主は白米を口に放り込み、ごちそうさまでしたと手を合わせた。私も慌てて味噌汁を飲み干し、二人分の食器を片づけた。

***

「旦那様、まだ歩くのですか」
「なに、後少しさ。話している間に到着するよ」

道なき道をひたすらに歩いて、どれだけの時間が経っただろうか。家から少し離れたところにある小高い山を登り続けて、かれこれもう一時間は歩いている気がする。元は人間の歩いた道筋があったであろう山道が、雪に覆われてどこもかしこも真白に染まっていた。膝の下まである雪を、人間の足でじゃくじゃくと掻き分けて歩くのは、想像以上に過酷であった。たまらず顔を空に向けて大きく息を吸うと、降り注ぐ雪が鼻の先に舞い降りて溶けた。あの日も、今日のような柔らかな雪が降る日だった。人間の罠にかかって動けなくなった私を主が助けてくれた、あの日も。私はもう完治した左脚をさすって、少しばかり物思いにふけった。今でも鮮明に思い出せる。あの日の痛み。人間への恨み。そして、その後に訪れた希望。はやく仲間の元へお帰りと言った、主の優しい声。慈愛に満ちた微笑み。この人間に幸せをもたらそうと心に決め、私は今、ここにいる。主と出会ってから、今日でちょうど一か月が経とうとしていた。

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