小説

『闇の向こうまで』竹野まよ(『耳なし芳一』(山口県下関市))

 その晩も、やはりかすかに琵琶が響いた。もう、うたは夜一睡もできなくなっていた。夜明けとともに部屋を出て芳一を捜した。儚げな様子で読経をする芳一の傍らで、坊主たちが和尚を取り囲んでいた。和尚は厳しい表情で墨と筆の用意を命じた。うたは和尚にすがりついた。
「和尚さま、何があったんですか。」
「芳一は毎晩、平家の亡霊にとりつかれてあの墓地まで連れて行かれていたようだ。二度と亡霊に姿を見られないよう、体に経文を記すことにした。もう大丈夫だから、うたは少し休みなさい。」
うたは胸が張り裂けそうだった。和尚に答えることも出来ず、その場で気を失った。
 目を覚ますと、日が昇ったばかりの朝の気配がした。しばらく天井の梁をぼんやり眺めていたうたは、我に返って飛び起きた。寺はいつもの読経の声もなく、ひっそりとしている。庭に面した部屋にたどり着くと、和尚と坊主たちが神妙な様子で座り込んでいた。真ん中には薄い布団に芳一が寝かされていた。
「芳一さん」
うたは部屋に飛び込んだ。芳一は頬被りのようにぐるぐる巻きにされ、死んだように動かなかった。うたはへなへなとその場に座り込んだ。その時、芳一が僅かに動き、意識を取り戻した。
「私は生きているのでしょうか。」
緊張が走り、皆が一斉に芳一をのぞき込んだ。
「生きておる。生きておる。芳一、ありがとう。生きておってくれてありがとう。」
和尚の声は震えていた。坊主たちの歓声が上がった。
 うたはこまめに消毒したり薬を塗り直したりして甲斐甲斐しく芳一の世話をした。芳一の傷口は少しずつ良くなっていった。最初こそ、お座敷の依頼を断っていた和尚も、芳一が普段通りの修行ができるようになってからは、徐々に依頼を受けるようになった。芳一は琵琶を持って再びお座敷にあがった。しかし、度々来る平曲の依頼については一切応じなかった。
「私に平家を語る資格はないのです。」
とその一点張りだった。

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