小説

『闇の向こうまで』竹野まよ(『耳なし芳一』(山口県下関市))

 芳一は以前に増して熱心に修行をするようになった。食は細く、か細い手足はかさつき、痛々しかった。常に心を鎮めて読経する姿がどこか空虚な感じさえした。うたは、そんな芳一を見かねて頼み込んだ。
「あの夜の出来事を、私に話して聞かせてください。」
何度も尋ねるうたに、芳一は重い口を開いた。それは、大きな屋敷に連れられて、平家一門が集う中で毎晩物語を弾き語った奇妙な体験だった。
「五日目の語りを終えたとき、座敷には鬼の気が漂っていました。最後の日、私はあの世にもろとも連れて行かれるのだと確信しました。それでも、私は怖くなかったのです。けれども、私は和尚さまに経文を体に記してもらいました。なぜ、あの時断らなかったのか、今は悔いても悔い切れません。和尚さまから話を聞いて死ぬのが怖くなったのでしょう。自分の命を救う方法があると知って惜しくなったのでしょう。」
芳一は魂が抜けたように無表情な顔を宙に向けていた。誰にも打ち明けられないでいた悔恨の情を初めて晒した瞬間だった。
「このちぎれた耳を皆は命を懸けた行いと称えます。けれども、私にとっては、しっぽをちぎって逃げた臆病なトカゲの証でしかないのです。この証とともに私は生きていくのです。」
芳一の閉ざされた瞳から一筋の光が伝った。
 数日後、うたは、芳一の手にぬばたまを詰めた小さな赤い袋を握らせた。
「いつかきっと、芳一さんの願いが叶うように、と願いを込めてお守りを作りました。このぬばたまは、私を暗闇から救ってくれたものです。きっと、芳一さんも救ってくれます。」
 芳一の手の中で、ぬばたまがぞろぞろと音を立てた。
「うたさんは、私の心の奥深くの堅く冷たい石のようなものを易々と取り出してしまった。そして、今、あなたと一緒にいると、一人では到底できないと思い込んでいたことも、もしかしたらできるのではないだろうかと、思い始めています。」
 芳一は赤い袋を強く握りしめた。
「私の願いが叶ったら、このお守りを開いて、そこらじゅうに蒔こうと思います。一緒にひおうぎの花を愛でましょう。」
芳一の生気の戻った頬の色が嬉しくて、うたは大きくうなずいた。
 その日、寺は珍しく大勢の人たちでにぎわっていた。満月の下、管弦祭が開かれるのだった。うたは舞手として立つことになっていた。夕刻になり、二人は浜へと向かった。坂道を降りると、やがて穏やかな波の音が響いてきた。潮風の香りが心地よい。小さな入り江に篝火が焚かれ、櫓の組まれた船が桟橋の先に泊まっている。櫓の四方には紙垂が括り付けられ、ひらひらと風に吹かれていた。芳一は、うたに扇を渡した。
「これから海に出ます。船をゆっくりと旋回させている間、私たちは管弦を奏します。うたさんは月の光をこの扇で掬うように舞ってください。もし、海が荒れたら扇を閉じて掴み、船の中へ後ずさって安全なところに座ってください。扇は結界を作ってあなたを守るはずです。」

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