小説

『電車』久遠さくら(『蜜柑』)

 その後、窮屈な時間を耐え抜き、停車するごとに徐々に人は去っていき、四駅を過ぎた後は、奥の席に鎮座している人たちが鮮明に見えるくらいには、吊革につかまる人の数は減っていた。迷惑だった老人も一駅前に降りて、やっと安息をものにすることができた。車内の香水や汗の混ざり合った不快な臭いも、鼻が慣れて何も感じなくなっていた。
 
 そこから、電車の不定期な揺れが、揺りかごのように私を安心させて、うたた寝を始めてしまった。もうすでに何人かスヤスヤと就寝している様子である。ちょうど良い湿度がさらに心地よさを与えた。
 
 
 その幸福な時間は呆気なく過ぎ去った。どこからか聞こえる着信音が眠気を完全に解き放った。自分の思い通りにいかない私は、我慢の利かない子供のようにイライラを抑えきれず、ついに貧乏ゆすりを始めてしまった。音の発生源は自分の目の前を座っている一人の三十代前くらいの若い男性だった。彼は着信音がなっているのに気が付いていないのか、目を閉じてスヤスヤと幸せそうに寝ていた。数度目のコールでようやく目を開け、慌てた様子でカバンからスマホを取り出した。そして画面を数秒だけ凝視して、少し躊躇した様子で、スマホを耳に当てた。
 
 初めは何を話しているか分からなかった。おそらく、小声で電車の中だから折り返す旨を伝えたのだろう。だが、予想に反して、今度は周りにはっきりと聞こえる声で話し始めた。
 
「だから、話って何?」
 
 車内に響き渡る少し怒気を含んだ声が、私の濁り切った心をさらに汚らせた。周りもさすがに自分のスマホの画面から目を離し、迷惑そうに彼のことを一瞥していた。彼は話すことをやめなかった。話し相手が何を話しているかは不明瞭であるが、彼が相手の耳に届けるために大声で話し続けることに、私は不快感を増強させた。まだ、タバコの臭いを纏った老人の方がマシだとさえ感じていた。
 
 時間の経過とともに、彼は段々と熱を込んだ声を出し始めた。最後に「マジ?」という今まで一番大きな声を出した。その声を聞いて、自分は立ち上がり、殴ってやろうという無謀な野望を抱いた。しかし、そんな気概も次の一言で打ち消されてしまった。
 
「妊娠・・・」
 
 彼の澄んで驚いた口調。その瞬間、周りの張りつめた空間がみるみる変貌していった。耳を傾けていた人はみな、彼の発言に夢中になっていた。ゲームに興じていている彼は、いまだに不動で画面を叩き続けていた。

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