小説

『電車』久遠さくら(『蜜柑』)

「いや、でも・・・」
 
 喜びに満ち満ちると思っていた反面、彼はなにか躊躇うような、弱弱しい言葉遣いで電話し始めた。その時、私の中である最悪の可能性を想像していた。相手は不倫相手とかではないのか。そんな想像も、すぐに打ち消すことになった。
「うん、うん。そっか、俺、お父さんになるんだな」
 
 目元に涙をためながら震える声で話す彼に、もはや誰も、ここが電車の中であることを忘れていた。電車が自分の最寄り駅に停車してしまうのが、こんなに惜しむのは初めてのことだった。しかしながら、無情にもスピーカーを通して聞こえるアナウンスがもうすぐ最寄りの駅に着くことを告げた。やがて、電話を続けている彼の後ろの窓からホームが見え始めた。立ち上がり、私は耳を彼に傾けながらもドアの前に向かった。彼はスマホを耳に当てるだけで、一切の発言を辞めてしまっていた。それが堪らなく、くすぐったかった。
 
 ドアが開き、私は別世界の空間と別れをした。
 
 いつも通り改札を抜け、変わらない道で岐路に立つ。
 
 ドアに鍵を差し込み、靴を脱いで、ソファに腰を掛けた時、初めて自分が不愉快で退屈な時間を忘れていることに気が付いた。

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