小説

『ははきぎ』サクラギコウ(『帚木』(長野県阿智村園原))

 とうとう払う家賃もなくなり、親父に電話して飢え死に寸前だと助けを求めた。僕にとって相当な譲歩だった。
「金は送らねえ。そういう約束だからな」
 クソ親父の主張は変わらなかった。息子が飢え死にしようとしているのに、その言い草かよ、と言いそうになる。だがぐっとこらえた。ここで喧嘩をしたら本当にアパートの一室で死体が発見されることになる。
 新しい就職先を探しているので初月給が出るまでと言ってみる。だが本当は就職のあてなど無かった。今どこも採用をストップしている状態だ。それを見通しているのか
「こっちに帰って来るなら引越しの費用は出してやってもいいぞ」
 誰が帰るか、飢え死にの方がまだましだ。
 叫びそうになる言葉をのみ込み「考えてみるよ」と答えた。

 帰ることを約束し引っ越し費用を振り込んでもらうことにした。だがこれは作戦だ。一度田舎に帰るがコロナが落ち着いたら再び戻って来るつもりだ。少しの間のことだと思えば、クソ親父も、何もない田舎生活も我慢できそうな気がした。少なくても飢え死によりはマシだった。
 僕も大人になった。
「帰ってくる前に、PCR検査を受けて来い」
 という親父の指示に従った。田舎では都会から帰郷する者への抵抗感はこちらが考えている以上に強いらしい。感染者ゼロの地域に乗り込むのだから、これはしかないことだ。
 また使うので惜しい気もしたが、売れる家具や家電は全て売り払い、売れないものは処分した。コロナ禍のため二束三文で買い叩かれたが、家具を持って田舎に帰ったら二度と戻れない気がしたのだ。次に田舎を出る時はリュック一つで出ていける。どれほど親父が引き留めても身軽ならそれもできる。

 夕方バスを降りるとまったく変わらない故郷の風景が広がっていた。この一帯の集落には7軒の家が点々と存在している。おそらく今日僕が帰ってくることは部落の全員が知っているはずだ。今更ながら気が滅入る。
「康夫んとこの広夢じゃねえか」
 バスを降りてすぐに声を掛けられる。同じ集落の田中さんだった。今まで誰かと話をすることが少なかったせいか上手く挨拶を返せない。
「あ、はい」
「せっかく東京へ行ったのに、戻って来ることになるとはな」
「ああ、はい」
「そんな返事しかできねえのか。大学まで出てるのに」
「あ、すみません」
 僕は故郷の土を踏んだ瞬間から、小言を言われ続けた。

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