小説

『龍の祈り』夏目会(『黒姫物語(長野県)』)

 変な人間、それが女を初めて見た時の率直な感想だった。大沼池という池が私の住処であって、人なんて滅多に来ない。奥地にあるという事もそうだが、それ以上に軽々と村を滅ぼせるような恐ろしい黒龍がいるという噂が絶たないのだ、それを人々は恐れているのだろう。まあ特に村を滅ぼす理由もないし、そんなつもりは毛頭ないのだが。ただ、ただ1人。夕方池の近くを訪れる女がいた。それが、変な人間。美しい顔と美しい着物を着ているくせに、そこらじゅう傷だらけだった。何をしているのだろうと蝶に化けてひらひらと飛びながら女を眺めてみたが、池の淵に腰かけ、特に何かするわけでもなくボーッと池を眺めて、日が暮れる頃に帰っていく。毎日その繰り返しだった。気になって村の方まで蝶の姿のまま追いかけてみれば、どうやら女はいい所の姫らしい。なるほど、通りでいい着物を着ているはずだ。でもじゃあなぜそんなに傷だらけなのか。 その疑問はすぐに解消される。女は笑われていた。クスクス、クスクス。
「妾の子がよくもまあ堂々と廊下を歩けるのね。」
「顔だけはよいから男性には可愛がられているのだわ。」
 嫌な笑い声が小さく響く。女にも聞こえているのだろうが、特に反応をする事もなく、ただ少し微笑んだまま歩いていた。
「おい。」
 冷たい声で女を呼び止める声がする。女は微笑みを崩さないまま呼ばれた方向を向いた。呼んだのはどうやらここの殿様のようだ。つまり女の父親。そのはずなのに、その声も態度もあまりに冷たい。そのまま城内の人々の話に聞き耳を立てていれば、どうやら女は殿様と妾の間に生まれた子。その妾は病気で亡くなり、本妻からも実の父親からも冷たい扱いを受けている事が分かった。変な人間、またそう思った。だって女はいつだって微笑んでいるのだ。悪口を言われている時も、ひどい扱いを受けている時も、女は微笑みを崩さない。泣きもせず、怒りもせず、ずっと同じ表情のままなのだ。なんて気味が悪い。
 その日はいつもより傷が多かった。珍しく顔にも痣が出来ており、女は相変わらず池を見つめている。
「・・・何を見ているのだ。」
 いきなり蝶がしゃべったのだ、少しは驚くだろうか、なんて思ったが女は特に驚いたような素振りは見せなかった。少しだけ視線を私に向けて、そして、小さく微笑む。
「何って、池を見ているの。」
 想像よりも幼い声。そうか、と私が返せば、今度は女が問う。
「蝶々さん、この前城に遊びに来ていたでしょう。」
「・・・なぜ?」
「こんな素敵な模様の蝶々さんだもの。見間違えるはずがないわ。」
 そう言って、女は私を見て笑う。そこには城で見かけた微笑みとは違う、もっと人間味のある笑顔があった。今度は人間に化けて女の横に立つ。女はそれにも特には驚いた様子を見せず、静かに腰を動かして、座れる場所を隣に空けた。そこに腰かけて、同じように池を眺める。
「その顔は、どうしたんだ。」

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