小説

『熱』和織(『寒さ』)

「今日みたいに寒い日だったんですけど、その人は、駅員さんだったらしいです。私は、直接「そのとき」を見た訳じゃなかったんですけど」
 男は話し続ける。私は日を改めなければならない可能性に捉われた。なんてツイていないのだろう。一週間延ばすか?一週間・・・・とても耐えられない。そういうことが一瞬で頭を駆け巡る。ああ、どうして最後までこうなのだろうか。このままではこの男に、自分の最後を見届けられてしまうことになる。まぁ、でも、それも仕方ない。私の様な人間には、それがお似合いなのかもしれない。それに、彼が悪い訳でもない。気まぐれで声をかけてきたあの男は、話しかけられた方をこんなにも悩ませているとは、夢にも思っていないのだから。
「我々は結局のところ時間の奴隷なんですね。運命はタイミング。もう少し早ければって、見た人が言っていました」
 私はそこで、初めて男の話に耳を傾け、それまで流し聞いていた言葉を頭の中で並べてみた。そしてやっと、嫌な予感を拾い上げた。考えが先走る前に席を立とうとしたとき、男はそんな私の服の袖を引くようにこう言った。
「線路に落ちた子供を助けて、電車に轢かれたそうですよ。その駅員さん」
 その言葉に、息が止まった。
「ご遺体はもうなかったんですけどね、線路に、ちょうど湯煎されたばかりのチョコレートがこぼされたみたいに、血が溜まっていました。そこから、その紅い血から、湯気が立ち昇っていました」
 私の顔はゆっくり、糸で引かれるように、ほんの少し、男の方へ移動する。
「すぐ目を逸らしたんですけどね、一瞬で網膜にこびりついたように、残ってしまいました。どんな感動とも言えない唯一無二の大きな衝撃でした。器からこぼれてしまった命が、地上から離れていく様を見たようでした。不思議なもので、死を見た筈なのに、僕があの景色を思い出して感じるのは、いつも生です」
 男の声は、口調は、おとぎ話でも語っているようだった。私は、息を吸った。何か言おうかと考えたからだ。けれど、声が凍り付いてしまったように、何も出ない。そもそも、何もないのだ。そのことに、今気づいた。死のうとしている自分が、命について知っていることなんて、何一つないのだ。
「死んだ人に生を感じたり、生きている人を死んでいるなと感じたり。そいう生き物は人間だけなんでしょうね。自分を死人だと思っている人って、寒さと一体化した気になっているように見えます。冷たくなったってしまったって、そう思ってる方が楽ですからね。でも、生きてる限り、冷たさって、感じ続けるもんでしょう。死んだフリしてたって、熱は消えないから、いつまでもいつまでも、温めようとすることを止めないですよね、命って。あの血は、器からこぼれても尚、あの冷たい線路、温めようとしていたんですから」
 私は、男の顔を見た。けれど、たった今まで話をしていた筈の彼は、眠っていた。それに、最初に見たときとまるで印象が違うように感じた。声をかけようかと思ったが、それを諦めて、前を向いた。そして、その駅員の体からあふれ出した紅い血が、線路の上で蒸気を発する様を想像した。自分の血も、そうなるだろうか?そう、なるのだろう。誰の血だって、なる筈だ。そう思ったら、もうそれ以上、何も考えなくなった。
 いつの間にか、膝に肘をのせて、無意識に、わざと手袋をせずに来た手を、氷のように冷えた手を組んで、唇に当てていた。するとわずかな熱を、指に感じた。冷たいと思っていた椅子は、いつの間にか私と同じ温度に変わっていた。腿の下へ、そっと手を入れた。涙は温かくて、冷たかった。

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