小説

『桃太郎に生まれて』久保田彬穂(『桃太郎』)

 ピンポンとチャイムが鳴った。家には僕一人。仕方なくインターホンを覗き込むと、制服姿の女が映っていた。それはたしか、僕が行くはずだった学校のものだ。入学式で一度見ただけだけど、きっとそう。緑のチェックのスカートに緑のリボン。「何で緑なの?」と女子たちが不満を言っていた。誰も君たちのことなど見ていないのに。
 しかしどうして学校の人間が僕の家を知っている?
「桃太郎、私、覚えてない?」
 赤茶色の髪の女は言った。この髪の色、見覚えがある。そう考えているうちに、女は帰っった。
 僕は久しぶりに小学校の卒業アルバムを取り出した。1組、2組……
 3組のページに、そいつはいた。
 柴崎姫乃。小学生のくせに髪を染めている。顔は正直覚えていない。当時、周りの人間の顔なんて見ていなかった。ずっとうつむいていたから。
 柴崎姫乃。僕を一番、いじめていた奴だ。鬼で言えば赤鬼。
 そんな赤鬼がなぜ、僕の家に。

 次の日も赤鬼はやってきた。僕は鬼退治なんてできないから、ひたすら蒸し暑い部屋にこもった。
 そんなことが数日続いたある日、母親から手紙を渡された。柴崎姫乃からだった。
“話したいことがあります”
 ただの白いメモ用紙なのに、罫線の上に書いたような真っすぐな文字。
 何を話そうと言うのだ。散々僕をいじめてきて、今更謝ったって許すわけがないのに。でも、柴崎姫乃の声は当時のそれとは違っていた。何かを知ってしまった、大人の声をしていた。

 次の日も、その次の日も手紙は届いた。一日一言ずつ。
“あの時はごめん”“桃太郎のこと、何も知らなかった”“みんな待ってる”“学校へ行こう”
 僕はいつしかそれを直接ポストに取りに行くようになった。一日の中で唯一、家の外に出る瞬間だった。手紙を入れる前には必ずチャイムが鳴る。その音が消えてから数分待って、母親が帰ってこないうちに取りに行く。
 そしてある日、罠にかかった。赤鬼が待っていたのだ。
 でもなんとなく、その時を待っていた気もする。
「私の名前、覚えてる?」
「柴崎姫乃」
「そう、でも今は違う」

 
 小学生の時、隣のクラスに桃太郎という名の子がいると聞いて、みんなで見に行った。すごく期待して行ったのに、桃太郎は本当に地味で、暗くて、話しかけても答えない。ずっとうつむいて、机のある一点だけを見つめていた。
 私は自分の名前を気に入っていた。「柴崎姫乃」お金持ちのお嬢様みたい。

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